「ホントにここでいいのかLINEしようと思ったとこなんですよぉ、鈴木さんに」
 安堵した風情で入ってくる新客の甘ったれた声音を、しっ! とケイティが牽制した。
 で、面倒だから店内滞在中の名前について早々に説明してやったが、王子の顔面に浮かんだ怪訝は晴れるどころか、みるみる別の色合いに曇っていった。
「へぇ、そうなんですかぁ」
 ルールを聞いてもニューフェイスの反応は薄かった。
 その理由はすぐに知れた。
「それより、どうして鈴木さんの隣に田中さんが座ってるんですか? あ、名前が違うんでしたっけ?」
「愛しのハニーはキャシー。キャシーの隣を馴れ馴れしく占拠してんのがローラ」
「どうしてキャシーに馴れ馴れしくしてるんですか? ローラ」
「いやキャシーに馴れ馴れしくしてるつもりはねぇけど……」
「じゃあ誰に馴れ馴れしくしてるつもりなんですか?」
「──」
 まぁつまり、と店主が楽しげな声を挟んだ。
「この、リカちゃん人形の何人目かの彼氏みてぇな兄さんがエイミーってわけか」
 それを聞いた客たちは無言で目を交わし、互いに確認し合った。リカちゃんの彼氏なんかひとりも知らないし、彼女がそんなに恋多き女だってことも初耳だ──という共通認識を。
 ともあれ「便所のアイツら」が何なのか謎のまま、ローラが何事もなかったかのようなツラで自席に戻り、エイミーが無事キャシーの隣に収まって事なきを得た。
「さて、エイミーは何飲むんだ?」
「エイミーって僕のことですか? あ、じゃあハニーと同じのを」
「違うよ」
 ハニーが素早くツッコんだ。
「何がですか?」
「ハニーじゃない」
「あれ? ここでの名前、ハニーって言ってませんでした?」
「全然違うし、どこでもハニーじゃない」
「ハニーじゃないならダーリンですか」
「出たぜラムちゃん」
「そういやエイミーのヤツ、ラムちゃんがわかんないんじゃなかったっけ」
 以前に一度、会社の喫煙ルームでそんな会話になったことがある。
 あのときはキャシーとエイミーのネタじゃなかったかもしれないが──誰も確かな内容なんか憶えちゃいない──かの有名なラムちゃんを王子が存じ上げなかった驚愕の出来事は、野郎どもの記憶に深く刻み込まれていた。
 が、ギャラリーのヒソヒソ声にエイミーが意外な反応を見せた。
「見くびらないでください、ちゃんと勉強しましたよう!」
 どうやら箱入りプリンスもその後、虎模様の文化について学んだらしい。
「コスプレセットまで買ってダーリンとあそんだっちゃ!」
「え──」
「今のだっちゃは使いかた合ってんの?」
「いやわかんねぇけど、コスプレ?」
「どっちが着たんだ?」
「ほ……」
 キャシーが険しい面構えで何か言いかけ、つんのめるようにグッと黙った。
「あ、動揺したな今。本名言いそうになったなキャシー」
「はぁ何スか?」
「ほ、って言いかけたってことはエイミーが着たのか?」
「僕じゃありませんよう」
「じゃあキャシーか」
「着てません」
「どっちかがコスプレしたのは確かなんだよな?」
「はぁ? エイミーの妄想っすよ?」
「何だよオイ、水臭ェじゃねぇかキャシーよォ」
 カウンターの向こうで、店主が咥え煙草の唇をニヤつかせた。
「コスプレならここでやってくれりゃいいのに」
「ここでもどこでもやらないよ」
 続いて、ジェニーの声がエイミーの頭を跳び越えた。
「ツノのカチューシャも付けたのか? ブラは?」
「しません」
「え、じゃあ、パンツとニーハイとツノだけ?」
「じゃなくて──」
「ちょっと皆さん!!」
 突然、ついさっきラムちゃんネタに目を輝かせたばかりのエイミーがいきり立った。
「ハニーをいやらしい目で見るのはやめてください! 罰ゲームで虎柄のパンツとニーハイにツノ付けてヘソ曲げちゃってるエロあざと可愛さなんて、誰にも想像すらしてほしくないですっ」
「自分が言い出したんじゃねぇか」
「やっぱりブラはしなかったんだな」
「何の罰ゲームだったんだ?」
「このツラでエロあざとい虎柄に興奮する図が想像しづれぇなぁ」
「見た目に騙されんのも無理はねぇけどな、オッサン。コイツはこんなナリして濃縮したオスの欲望を可能な限り詰め込んだような野郎だぜ?」
「えーっ、誤解されるような言いかたしないでくださいよぉ、山……じゃない、えっと」
「ジェニー」
「誤解されるような言いかたはやめてください、ジェニーさん」
「ジェニーさんだって」
「新しいな」
「僕のオス要素は、あくまでハニー限定用品ですからねっ?」
「訊いてねぇ」
「要らん情報」
「そのかわり僕、どんなハニーにでも興奮できる自信がありますよ!」
「それも訊いてねぇ」
「どんな自信だよ」
「すっかりキャシーじゃなくてハニーだしな」
「いい加減にしないと一滴も飲まないうちに叩き出すよ、エイミー」
 液体窒素よりも冷ややかなハニーの一喝が、場の空気を──特にダーリンの下劣な緩みを──瞬時に引き締めた。
「店だけじゃなく家からも追い出されたくなかったら、今すぐ何もかも撤回して嘘ついたことをみんなに謝って、特に俺に謝って、リカちゃんの彼氏面に相応しいキャラを大人しく演じてなよ」
 女王様バージョンのリカちゃんだぜ……とギャラリーが囁き合う中、ダーリンがサッと居住まいを正した。
「皆さんごめんなさい。特にハニー、本当にごめんなさい。ラムちゃんごっこなんて大嘘ですからね!」
「何つー嘘臭さ」
「ハニーじゃないよ」
「すみません、ラムちゃんでしたっけ」
「──」
 ラムちゃんの顔面に、らしからぬ──否、ある意味ラムちゃんの称号に相応しい──気迫が漲った刹那、エイミーの前にファーストドリンクが現れた。
 セクシーにくびれたヴァイツェングラス。ただし中身はどう見てもビールじゃない。
 まろやかに白濁した黄色い液体に漂う、無数の黒っぽい筋。
 カウンターの全ての視線がソイツに集中し、全ての視線の主が同時に思った。
 ──ラムちゃん?
「あれ? 僕これ注文しました?」
「いや? まぁでもエイミー、お前のための特別なドリンクだ」
「中身は何ですか?」
「中身が何かなんて重要か?」
「えっと、ある程度は……?」
「ある程度なら切り捨てりゃいいじゃねぇか、マストじゃねぇモンに拘ってどうすんだよ? 何を呑むかなんて地球規模で考えたら砂漠の砂ひと粒より小せェことだろうが」
「まぁ──そうですね……?」
 エイミーは曖昧に首を傾け、まじまじとグラスを眺めた。
「それにしてもこの色柄、思い出しますよ。ハニーのラムちゃん──」
 うっとりしかけてハッとする。
「あ、いえ僕の妄想ですよ、もちろん。ハニーはそんなコスプレなんてしませんよ?」
「ハニーじゃなくてキャシーだって、誰かダメ押しで教えてやれよ」
 
 
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