同居人が取引先との飲ミーティングで不在の夜。
 隣家のリビングで部屋の主と飲んだくれながら、山田はかったるい滑舌を垂れ流していた。
「だって日本酒なんてのはよう、米味の水みてぇなモンじゃねぇか?」
 そのとき、こう思ったことは憶えてる。
 自分で言っといて何だけど、なんかどっかの誰かも垂れそうなセリフじゃねぇか?
 けど誰だっけ──言ってることにはまぁまぁ共感できなくもないんだけど、素直に認めたくはないこの感じ?
 思い出せないモヤモヤをコップ酒とともに吞み下す山田の対岸で、エリカが塗升をグッと呷った。
 升の中にグラスを突っ込んだ『もっきりスタイル』なんて、粋で間怠っこしいことはしない。作法なんかクソ喰らえの鷲掴みで升の角から一気に流し込む姿が流石のお家柄を思わせる──否、お家柄は逆に作法に煩いかもしれない──目付きの悪い坊主頭は、らしくもなくこんな真っ当なセリフを投げて寄越した。
「その発言、全国の蔵元やら日本酒愛好家たちが聞いたらタダじゃおかないんじゃないですかね」
「や、何言ってんの? 俺ぁむしろリスペクトしまくりだぜ? 水ってのは人体に不可欠なシロモンじゃねぇか、つまり日本酒ってのは生きていくのに必要な成分ってことだろ? てかソレを言うなら、お前のそのざっくりした枡酒スタイルはどうなんだよ?」
「宅飲みの酒をどんな手口で飲もうが勝手だし、山田さんのそのコップ酒にどうこう言われる筋合いはなくないですかね」
「別にコップ酒はお前のことをどうこう言ってなんかいねぇぜ?」
「まぁでも山田さんのそれ、ウチの兄貴も似たようなこと言ってましたね」
「楓?」
「えぇ」
「ソレってのはどこらへんのことだよ?」
「日本酒は水だって言いながら伊万里のラーメン鉢で花陽浴を呑んでました、そういえば」
 どうやら作法は度外視なお家柄らしかった。
「ンな飲み方させるぐらいなら奪ってこいよ、花陽浴なんつー旨い酒はよ」
「奪う間もなくカラになりましてね、何しろ満水時の容量が2リットル近いラーメン鉢だったんで」
「ちょっと待った、一升瓶が1・8リットルだよな?」
「それが何か?」
 山田は2秒考え、面倒になってそれ以上のツッコミを放棄した。
「まぁとにかく撤回するぜ俺は、アイツと同じ発想とかヤだもんな。日本が誇るコメの酒は水なんかじゃねぇ」
「おっと、男が二言を吐こうって肚ですか。発想どころか発言までなかったことにしようとは、また随分と往生際の悪いことをするモンですね山田さん」
「何言ってんだ? お前の兄貴と同じ輪っかを抜け出すためなら、たとえ野郎の沽券に関わろうとも往生の際からUターンしてみせるぜ俺は」
 そのとき突然、何の脈絡もなくパッと閃いた。
「あ」
 そうだアイツだ、さっきのモヤモヤの正体。目の前のボウズの兄貴以外で、酒に関して似たようなコメントを垂れ流しそうな野郎?
 隠れ家というにはアンダーグラウンドすぎる、鈴木んちの地元のバーの客商売とも思えねぇサンオツ店主だ。
「なぁエリカ、今度初台に飲みに行かねぇ?」
 するとボウズは、酔っ払うと普段にも増して険を孕む眼差しをますます眇めた。
「初台に何があるんですかね」
「なんでいちいち凄むんだよ?」
「凄んでません、素朴な疑問を体現しただけですが」
「やっぱエリカお前はさぁ、家業に参加するために生まれてきたツラなんじゃねぇかって思うんだよな、オレ的には」
「家業で人相が決まって生まれてくるとでも?」
「ナントカの星の下に生まれるって言うだろ?」
「精子と卵子が結合するだけの話に、星なんか入り込む余地はないと思いますがね」
「エロくせぇ女装写真を上げまくってるインスタグラマーには蔑ろにされたかねぇと思うぜ、お星様もよ」
「で? 初台が何でしたっけ」
「だから飲みに行かねぇ? って」
「初台に何があるんですかね」
 話が一周して戻った。
 
 
 会社を出て鈴木んちの最寄り駅、初台まで移動して更に徒歩10分。
 その夜、先陣を切って店に乗り込んだのは常連である鈴木、再訪の山田、初訪の佐藤と死ぬ気で嫁さんの許可をもぎ取ってきた田中の4人だった。
 ちなみに死ぬ気どころかマジで死ぬぞと釘は刺しておいた。この店に一歩入ろうものなら、何をどんだけ飲まされるかわかったモンじゃないことはわかってる。
 だから飲み過ぎて死体デッドマンになるか、飲み過ぎたことが嫁さんに知れて死体デッドマンにされるか、いずれにしたって末路はひとつだ。
「ホントにバーなのか? ここ」
 討ち死に覚悟の田中が疑わしげに言った。
 住宅地に紛れて建つ辛気くさいビルには相変わらず看板もなく、所在がわかりづらい階段を降りた先では色気も素っ気もない古びたスチールドアが企業戦士たちを待ち受けていた。
「長年使われてねぇ倉庫にしか見えねぇな」
 これは佐藤。
「や、老眼始まってんじゃねぇのか佐藤、よくよく見てみりゃ人が出入りした形跡がうっすらあんだろ?」
 言いながら目を凝らして形跡を探す山田を尻目に、鈴木がさっさとドアを開けた。
 挨拶もなく入っていく背中に残りの3人が続くと、カウンターに並ぶ酒瓶の林の向こうから鬱陶しいナリのヤサグレ感満載な店主が咥え煙草のまま重たい目を寄越した。
「あぁ? なんだキャシーお前、客を連れてくるから貸切にしろってアレ、まさかマジだったのかよ?」
 煙もろとも吐き出された客商売とも思えないセリフに、佐藤と田中が鈴木を見た。
「キャシー?」
「その件はあとにしませんかね」
 鈴木だかキャシーだか判然としないリーマンが言い、1日の任務を全うしてきた戦士どもは各々止まり木へと舞い降りた。
 右端、つまり一番奥に鈴木が陣取り、その左隣を1席空けて山田、佐藤、田中と続く。田中の左には空席が2脚。
 鈴木が自分の隣を見てから目を上げた。
「なんで空いてんスか、ここ」
「え、だって来るじゃん?」
 先輩が答えると、上役でもある後輩は微かに眉間を寄せた。
「貞子が?」
「は? いや、きっとじゃなく絶対ェ来るよな?」
「誰がっすか?」
「誰がってお前……あ! そーいやようあの歌さぁ、くーるぅ、きっとくるぅじゃねぇっての初めて知ったんだぜ俺、この期に及んでつい最近!?」
 語尾に興奮を滲ませる山田の前に、有無を言わせず茶色い液体入りのロックグラスが現れた。
 ちなみに「あの歌」ってのが某有名国産ホラー映画の主題歌であろうことは全員察しがついていたが、誰ひとり反応しないうちに奥の席にも同じものが供され、全くヤル気のない声音がボトルの林を縫ってこう尋ねた。
「で? ご新規のお2人さんは何飲むんだ?」
 問われた野郎どもが、ご新規じゃないお2人さんの手元を見た。
「ソイツは何が入ってんだ?」
「何スかねぇ」
「さぁなぁ」
「何が入ってんのかなんざ、わかってたらつまんねぇだろ? なぁジェニー」
 割り込んできた声を聞いて、新規客2名が既存客2名を交互に見た。
 
 
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