駅からスーパーに寄り道する途中、新しい美容室の存在に気づいた。
 白と木目のコンビネーションでデザインされた小さなサロン。
 つい最近までは、廃業から半世紀くらい経ってそうな床屋跡だった。が、ちょっと見ない間に、ジジイから孫の代まで飛んだような変身を遂げちまったらしい。
 ちょうど客がいなかったのか、店主っぽい若いニーサンが店先の鉢植えに水を撒いていた。
 スレンダーな長身に優しげな面構え。
 散水ノズルを操る、いかにも美容師然とした手つき。
 コイツぁ間違いなく、フレスアカート穿いた女子しか出入りしねぇ店だぜ──脳内で呟きながら通り過ぎようとした、そのときだ。
 どうしたことかニーサンの手元が狂って、散水ノズルのシャワーが山田のスーツを直撃していた。
「あぁっ、す、すみません! あの、く──クリーニング代を」
「えーっと、それフツーに水ですよね?」
「そうですけど……」
「なら全然大丈夫っす。こんなハプニングにも安心の撥水加工だし、あともう家帰るだけなんで」
 スーパーに向かってたことまで白状する義理はない。
「あのでも、お急ぎじゃなければ乾かしますので、よかったら中に入りませんか? で、乾かす間にご迷惑でなければ是非、お詫びとして」
「あ、オレ、メシが家で待ってっから」
「違います」
 素早く遮った山田を、更に素早くニーサンが遮った。
「飲食物じゃありません」
「てことは?」
「カットさせていただけませんか」
 山田は男の顔を2秒見てからナチュラルインテリアのサンプルみたいな店舗を2秒眺め、また美容師に目を戻した。
「もしかして俺の髪?」
「そうです」
 まぁ美容師が「カットする」と言ったら十中八九そうだろう。
 ついでに思い出した。会社を出る前、同居人からも髪をどうにかしろって言われたことを。
 そりゃあ、山田だって鬱陶しくなかったわけじゃない。
 こないだなんか、仕事中に書類が見えづらかったから隣のリサコ──今年度の新入りでトップ争いに食い込む上玉女子だ──のデスクに転がってたピンクの事務用ダブルクリップを無断拝借して前髪を留めたら、そのまま忘れて客先を訪問しちまうという事案が発生した。
 二課部屋を出て廊下でスレ違った社内のヤツらも、エレベータで一緒になった社外のヤツらも、道行く通行人も電車で乗り合わせた乗客も、先方の受付のネーチャンたちも、誰も彼もが微笑ましげにニコついて寄越すから妙だとは思ってた。
 真相を悟ったのは、通されたミーティングルームに担当者のオッサンが現れるなり、意味不明な興奮を圧倒的な熱量とともに浴びせてきた瞬間だ。
「や、山田くん今日はか、可愛いねぇ!? いやいつもだけど一段と……ううんアレかな、ボクのためにオシャレしてきてくれたって自惚れていいヤツなのかなコレ!」
 たわごとはスルーしたけど、その日の打ち合わせはサンオツのリクエストによりクリップ付きのまま進行することとなった。
 ──とまぁ、そんな事故が起こる程度には支障が出てたのは確かだし、美容師のニーサンは職業的に我慢ならなかったんだろう。
 つまり、2人の利害が一致した。
 
 
「で、こうなったってわけ」
 チンタラ歩きながら鼻から煙を吐き、山田はそう締め括った。
「その話、先にどっちからツッコむべきなんだ?」
「どっちって何と何?」
「ナチュラルデザインな女子向けヘアサロンの前を通ったら、イケメン美容師が鉢植えに撒いてた水がウッカリかかっちまったとかいう、四半世紀前の少女マンガでしかお目にかからないような出会い方か? それともピンクのダブルクリップをお気に召したクライアントのオッサンか?」
「四半世紀前にナチュラルなヘアサロンとかイケメン美容師って存在したと思うかぁ?」
「知らねぇし、そこじゃねぇ」
「別にどっちもツッコむ必要なくね?」
「オッサンはどこの誰なんだ」
 山田が社名と担当者名を答えると、佐藤が溜め息とともに眉間に憂いを刻んだ。
「ついさっき残業中に見かけた気がするな、その名前」
「まぁそりゃ昔っからのお得意サンだし、ずーっと担当変わんねぇもんなぁ。あ、毛量はメッチャ減っちまったけどな、最初の頃と比べたら。けどまぁ何つーかとにかく、下校途中の小学生をイジる近所のオッチャンみてぇなノリだぜ?」
「──」
「や、マジで。いちいち鬱陶しいのが困るぐらいで、大した実害はねぇって。大体お前がピリつくよーなことだったら喋んねぇし」
「つまり、俺がピリつくようなことは隠してんだな?」
「いや何言ってんの? ないモンは言えねぇってだけの話じゃん? それどころか俺はアレだぜ、隠し事なんか無縁すぎて芯まで剥かれちまったタマネギみてぇにあられもねぇマッパだぜ?」
「へぇ、で? イケメン美容師相手にあられもねぇタマネギの芯を晒して、皮ならぬシャツまで乾かしてもらったりはしてねぇよな?」
「してねぇよ、シャツは濡れてねぇもん」
「濡れてたらシャツも脱いだのか」
「なぁ佐藤。タラレバについて問答すんのは、この世で最も無意味な会話のひとつじゃねぇか?」
「じゃあ、ナラはいいのか?」
「言ってみろよ」
「髪切るたびにあちこちフラフラ店を変えるぐらいなら、いい加減俺んとこ来い」
「え……何それプロポーズ?」
「プロポーズならとっくにしただろうが──あ」
 ふと、何か思い出したような顔で佐藤が宙を見上げた。
 が、山田は気づかない。
「はぁプロポーズってされたっけ? 寝ボケてる間に指に輪っかをハメられたくらいしかソレっぽい記憶がねぇんだけどオレ的には、つーか髪切んのは床屋のほうが落ち着くしよォ。特に、お前御用達の店なんか無駄にコジャレすぎてんじゃん? しかもあの担当のネーチャン? あんなキレイどころに頭部を委ねるなんざ小市民的には畏れ多すぎて震え上がっちまうし、なんか場違いな平民が迷い込んできたみてぇな目で見られたら、うすはりグラス並みに繊細な俺の面の皮がハートブレイクだぜ」
「知ってっか山田、うすはりグラスは案外丈夫なんだぜ? それと、もし何か勘繰ってんなら必要ねぇ。行くたびに毎回、いつになったらまたカレシを連れてくるんだってうるせぇんだからな、あの担当。それより山田」
「別に妬いてねぇけどカレシって……ん? 何だよ」
「結婚しよう」
「うん……?」
 山田が生返事をして2歩進み、3歩目で立ち止まって佐藤を見た。
「──何つった?」
「結婚しようぜ」
「え? 日本はいつから同性婚オッケーになったんだ?」
「なってねぇんじゃねぇか?」
「じゃあ何だよ? いよいよアメリカ旅行か? てか別に俺ら、とっくに事実婚状態だったじゃん?」
「プライベートと社内で公認だったってだけで、社会制度上は認められてねぇ」
「プライベートと社内の認定だけでも、まぁまぁ市民権を得てるほうなんじゃねぇかって個人的には思うけど、で?」
「パートナーシップ制度の手続きに行く」
「──」
「ウチの区でも始まってしばらく経つけど、ちゃんとお前と話そうって思いながら何だかんだ先延ばしになっちまってて」
「──」
「無理にとは言わねぇし返事を急かす気もねぇけど、とりあえず帰ったらその」
 と、佐藤は山田の手にある袋に向かって顎を振った。
「何買ってきたんだかは知らねぇけど、ソイツを使ってメシを作ってやってる間にでも制度概要ぐらい見といてくれ」
「見なくても知ってる」
 即答した山田の眠たげな目を、一拍置いて佐藤が見た。
「ぶっちゃけ暗唱できるぐらい何回も制度利用の手引きを見たから、内容なら知ってる」
「あァ? 山田お前──」
「俺だって、自分とこの地元でスタートしたのを知らなかったわけじゃねぇよ? けど、いかにもお前が食いつきそうなネタなのに全然ンな気配ねぇし、まぁ別に必要ねぇって思ってんのかなって思うじゃん?」
「思ってねぇし、何で自分から言わねぇんだ?」
「だって、お前が必要ねぇって思ってることをわざわざ確認しなくてもよくね?」
「だから思ってねぇし、むしろ確認しろよ、必要ねぇとか思ってねぇことを」
「けどよォ佐藤、いくら法的効力はねぇったって腐っても公的なヤツだぜ一応? 指輪ハメて、オレら事実婚だぜぇなんつってるぐらいなら個人レベルなお遊びの範疇で済んでも、あんなモン役所に届け出ちまったら言い訳きかなくなるんだぜ?」
「お前は何の言い訳をしてぇんだ?」
「や、俺じゃねぇけど」
「俺が何の言い訳をするって?」
「や、まぁ人生ってのはいろいろ起こるモンじゃん?」
「知ってるだろうが改めて言っておく。俺は遊びでお前の指に輪っかなんかハメてねぇ」
 ちょうど通りかかったサンオツリーマンが、歩道を塞いで立つスーツ2人を興味深げにガン見しながら追い抜いていった。
 オッサンの背中に目を据えたまま佐藤が口を開いた。
「まぁいい。お前が内容を承知してんなら話は早ェ」
「うん?」
「明日、届出日の予約を入れる」
「え──マジで?」
「異論でもあんのか?」
「や──ねぇけど」
「あと、もうひとつお前に言っておくことがある」
「まだなんかあんの?」
 警戒の色を見せた山田の手からレジ袋を奪い、険しい目をして佐藤は言った。
「会社帰りに食材を買いてぇのは大抵お前なんだからエコバッグ持参で出勤しろって、一体何回言わせんだよ?」
 
 
【END】

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