「えー残業すんの? マジで?」
 とあるド平日の終業時刻。
 営業二課所属のリーマンは課長席に尻を引っかけ、同居人相手に不満を垂れていた。
「ノー残だぜ今日? 部屋ン中を見てみろよ、どいつもコイツも我先にドロンしちまおうと競うように帰り支度してんだろ? なのに、お前みてぇに定時なんかきてもいねぇようなツラでガッツリ仕事してるヤツがいたら、周りが帰りにくくなっちまうじゃねぇか?」
 熱弁を聞いて、帰り支度をしてたヤツらが一斉に手を緩めた。
「お前こそ周りが帰りにくくなる空気を作るんじゃねぇよ、山田。とにかく遅くなりそうだから先帰ってろ」
「じゃあ、スーパーで食材吟味しながら何食うか決めるミッションはどーなるんだよ?」
「テキトーに食いてぇモン決めて買っといてくれ」
「まさかメニュー決定権争奪戦で4連敗してる俺へのお情けとかじゃねぇよな、佐藤」
「ンな理由で残業するかよ、お前と違って忙しいんだからな。なぁ主任」
「は? ちょ、デケェ声で言うんじゃねぇ……!」
 主任のデカイ声に部屋中の目が集まった。
 そう。
 長年のらりくらりと昇進を躱してきた万年ヒラリーマンにも、とうとう肩書きが付いてしまったのだ。
 今回ばかりは人事部も頑として譲らなかったのは上層部の圧もさることながら、ダントツの成績を維持したまま万年ヒラであり続ける山田について新入り世代の間でまことしやかに囁かれる都市伝説を、もはや適当なゴマかしで有耶無耶にするのが難しくなってきたためらしい。
 で、練りに練って捻り出された提案が、ヒラに毛を生やした『主任』というポスト。
「まぁ、ウチの同居人もステージアップするなら譲歩してもいいっすけどォ」
 喫煙ルームまで突撃してきた人事部長相手に、鼻から煙を吐きながらテキトーな思いつきを言ったら、後日佐藤のもとに辞令が下った。
 以下、本文より抜粋──『営業部 営業二課課長に任命します。』
 当人は二度見したという。
 内示では一課長と聞かされてたし、敬語で書かれた辞令なんてのも初めてだったからだ。
 山田だって、自分とこの課長にしろなんて言ったつもりはない。けど、なっちまったモンをどうこう言うつもりもない。
 とにかく、つまり──だ。
 佐藤が山田の上司になった。
 だから山田が尻を乗せてるのは営業二課長のデスクで、ソイツはイコール同居人の席というわけだった。
「デケェ声で言ったら何なんだ?」
「俺に肩書きが付いてるってバレんだろーが」
「既に周知の事実じゃねぇか」
 粛々と帰り支度を再開していたヤツらが小刻みに頷く。
「ま、主任なんてヒラリーマンの別名みてぇなモンだけどな」
「山田お前それ、本田がいるとこで言うなよ? ただでさえアイツ、鈴木が飛ばされた件でご立腹なんだから」
 件の後輩は幸い不在。そういえば午後から姿を見てない気がするけど、まぁ別にいい。
 それにしても今回の人事異動は、つくづくカオスだった。
 次期二課長にスピード出世の内示を受けていた鈴木は、佐藤とチェンジで何故か一課長に就任。
 二課に取り残された本田は山田とともに主任へとランクアップしたものの、愛しの上司と引き離された王子は辞令から約ひと月もの間、事あるごとに山田と佐藤への恨み節を唱え続けた。
 最近ようやく、営業一課の本多スバルと新課長がなかなか息の合ったコンビだ──なんて噂が流れはじめたおかげで矛先が移って平穏が訪れた。
 営業企画課の田中は、そのまま営業企画課長に昇進。
 ついでに、前二課長だった元企画課長はどっかの次長に、山田と背格好の似た人畜無害な前一課長は営業部の次長に、それぞれ就いていた。
「全く……今さら長年の巣から隣の畑に移されちまって仕事が捗んねぇんだよ」
 誰かさんのせいでな。
 見上げて寄越した目がそう言ってるけど、山田的にはそんな工作に加担したおぼえはない。
「じゃあ先帰るけどホントにいいのかよ? 俺に決めさせたら、おフレンチのフルコースの食材なんか揃えちまうかもしんねぇぜ?」
「フランボワーズをメニュー名だと思ってたヤツがフレンチのコースなんか組めんのか?」
「はぁ何言ってんの? いくら何でもンな勘違いしねーぜ!?」
「わかったわかった。そういうことにしといてやるから、そろそろ仕事をさせてくんねぇか」
「全くよう、いつからンな仕事の虫になっちまったんだよ佐藤? もう退社するような時間だってのに、これから出勤するリーマン戦闘員みてぇにパリッとしやがってよォ」
「仕事の虫じゃなくても普通に業務が残ってんだよ。わかるか? つまり残業ってヤツだ。それよりお前こそ、もうちょっとどうにかなんねぇのか山田。その前髪もいい加減切らねぇと見てるほうが鬱陶しいし──」
 営業二課長は厳しい面構えでキーボードを叩きながら、息を潜める部下たちの聞き耳なんか屁でもない風情でこう続けた。
「お前の顔がちゃんと見えなくて落ち着かねぇ」
 
 
 山田に遅れること約1時間。
 思ったより早く残業を終えて地元に戻った佐藤は、マンションまでのルート上でコンビニから出てきたリーマンにふと目をとめた。
 中背痩躯、チャコールグレイのスーツ。
 くたびれたビジネスバッグを小脇に挟んで片手をポケットに突っ込み、もう一方の手にスーパーのレジ袋を提げてチンタラ歩く姿には見憶えがあった。
 が。
「あれ? 佐藤? 何だよ早かったな」
 こちらに気づいて振り向いた顔を、最低10秒は眺めたと思う。
「──誰だお前?」
「は? ちょ、何言ってんの? この2人と存在しねぇイケメンを忘れたとは言わせねぇぜ?」
「その2人と存在しねぇ平凡ヅラなら見飽きるほど憶えがあるけどな」
 問題は、そのツラがよく見えてるって点だ。
 会社を出る前は無精に伸びきった毛先が顔面を半ば隠さんばかりだったというのに、目の前にいる野郎はこざっぱりした髪をさりげなく整えた爽やか系リーマンみたいなヘアスタイルで、十年一日の気が抜けた面構えを惜しげもなく外気に晒してやがる。
「なぁ、さっき別れてから2時間も経ってねぇよな」
「なのに会いたすぎて1年ぶりぐらいな気がする?」
「そうじゃねぇ」
「はぁテメェ、まさか会いたくなかったとでも?」
「そこじゃねぇ」
「だったら何だよ?」
「その頭はどうしたんだ」
「あー、コレな」
 山田は間延びした声を返して煙草を咥え、佐藤と並んで歩き出しながらライターを擦った。
 
 
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