気づけば自分は山田の横に座っていて、テーブルには野島のものらしき飲みかけの缶ビールもあって、その脇には娘の手紙まで置いてあった。
 リビングの入口でバラ撒いたはずの、手紙の束。
 もちろん、電話中の山田はあられもない姿で床に転がってなんかいないし、それだけじゃない。なんと彼の前には開封済みの缶が2本並んでる。
 一体、いつの間に2本も──!?
 茫然とする野島の前では、普段どおりの気の抜けた声が電話に応じていた。
「あーいま、大家さんとこに寄っててよう。まだ帰ってねぇんだ……あ、前のアパートのな? 大家さん──あぁ、うんちょっとな。まぁいいじゃねぇか、あとで──え? あ、そうなんだ?」
 どうやら、さっき怒鳴り声に被さっていたのは電話の着信音だったようだ。
 気安い口ぶりに隠しがたい親密さが見え隠れする声音は、同居人である佐藤某氏じゃないだろうか。そう邪推して、ふと忸怩たる思いが肚の裡を過ぎる。
 ついさっきまで野島の脳内で繰り広げられていた、昭和ロマンポルノさながらの濡れ場。あんな妄想が彼の夫に知られでもしたら野島の命は風前の灯火だ。
「なんか予定より早く帰れたみたいで、もう戻ってくるっつーから。えーと、ウチのオットが。なんで、そろそろお暇しますねー」
 ビールご馳走様でしたぁ、と相変わらずのユルい笑顔で立ち上がった山田は、野島の娘の手紙をしっかり携えて帰っていった。
 彼の姿がアパートの向こうに消えると、寂しさと同時に安堵がやってきた。
 今日の白昼夢は──否、夜だから白昼夢というより、せめて白日夢と言うべきなのか? とにかく、ひどかった。
 それにしても、やたらリアルな幻影の中の、滴るような彼の色気ときたら。平素の姿からは考えもつかないくらいの艶めかしさだった──
 思って、つい笑いが漏れる。
 自分の頭が生み出した幻なのに「考えもつかない」とは、全くおかしな話だ。
 が……いずれにせよ野島には目下、困ったことがひとつだけあった。
 このままでは、下半身にこもる熱がおさまりそうにない。
 
 
 回り道して山田が住んでいたアパートのほうへと向かう途中、見慣れた背格好のリーマンがチンタラ歩いてくるのが見えた。
「おー佐藤」
「よォ」
「良かったな、早く上がれて」
「全くだ」
 3つの意味をこめて佐藤は投げ返した。
 仕事からさっさと解放されることも、家で過ごす時間が少しでも長くなることも、もちろん有り難い。
 が、今夜は残るひとつが最も重要だった。
 地元の駅を出て、何か買って帰るものはないかと山田に電話してみたら、なんと以前のアパートの大家んちにいるなんて抜かしやがる。
 佐藤がこの時間に帰ってこなければ、いつまで引き留められてたか、あるいは何が起こってたかわかったもんじゃない。
 山田が店子だった頃、あの婿養子は妻子がありながら──そんなモノあろうがなかろうが言語道断ではあるが──山田を見る目が明らかにおかしかった。しかも話から察するに、どうも部屋に出入りする人物を把握してるフシがあるとくる。
 だから、それ以上妙な真似をしないよう脅すついでに、小島が訪ねてきたらリークしろと圧力をかけておいた。
 ただし結局、役に立ったのは一度きりだった。
 連絡を受けた佐藤がデート中の女を置いて来てみれば、山田はたっぷり事後の風情で出てきやがるし、明らかに風呂上がりの小島が見せつけるように山田の唇を奪って行くしで、危うく血が逆流しかけたものだ。が、おかげで、あの環境にコイツを置いておくわけにはいかないって肚を後押しされたことは間違いない。
 ひと気のない住宅地を山田と並んで歩きながら、佐藤はポケットから煙草の箱を出した。1本抜いて咥える。
「で、お前、今さら大家んちなんか何しに行ったんだ?」
「やー、帰りにバッタリ会ってよう、そしたらナナコちゃんが次郎宛てに書きためてる手紙を渡してぇっつーから」
「そんでノコノコついてったのか」
「人聞き悪ィ言い方すんな、幼児の淡い恋心を無下にできるか?」
「恋心とは限らねぇし、ンなモンお前を誘い込むための口実に決まってんだろうが」
「いや何言ってんの? あの家は蜘蛛の巣で、俺は憐れな蛾かなんかか? てか手紙だってちゃんと実在したし、缶ビールもらって愚痴に付き合ってただけだぜ別に?」
「山田」
 穂先に火を点けて煙を吐き、佐藤は続けた。
「お前にひとつ、改めて言っておく」
「うん?」
「男と2人きりでアルコールを飲むな。それ以前に男だろうが女だろうが、俺が許可した相手以外と2人きりになるな」
「な、おま、どんだけあり得ねぇ亭主関白だよ?」
 呆れ声を返して寄越した山田は、ふと息を吐いて手のひらで首筋を擦った。
「けどまぁ心配しなくても、もう近づかねぇようにするぜ。さすがになんか、だいぶヤベェ感じだったもんな今日は」
「──お前、やっぱり何かあったんじゃねぇのか?」
「いやねぇって。それにしてもさぁ、嫁さんの実家暮らしな上に家業を継ぐ婿養子なんてなるモンじゃねぇよなぁ。ありゃあ相当ストレス溜まってんぜ?」
「お前が心配することじゃねぇ」
「まぁそうなんだけど。でもストレスでおかしくなるってのはわかんねぇわけじゃねぇから、すっぱり無下にもしづらいっつーか」
 幼児の恋心じゃねぇけどさ。そう付け足して笑った山田の横顔に、かつての辛い経験の色は見当たらない。
 それでも、例の腹違いの兄貴に就職先まで支配されかけた話を思い出し、殺意にも似た胸クソ悪さが込み上げてくる。
 ソイツは、自ら選んだ嫁の実家の家業を継ぐってのとは全く別次元の絶望だ。
 当時の山田にとって、その出口の見えないトンネルが一体どれほどのストレスだったか。もどかしいことに、佐藤には想像もつかない。
「何だよ、わかったって言ってんだろ? ンな怖ェ顔すんなよ」
 佐藤の指から煙草を奪った山田が、ひと口吸ってヘラッと笑った。
「大丈夫大丈夫。俺は君子だから、危なそうなモンにはもう近寄らねぇぜ?」
「君子だったら近づく前に嗅ぎ取れよ」
「春だから鼻が詰まってんのかもな」
「ついに花粉症になったのか」
 途端に山田が目を三角にしていきり立った。
「いやなってねぇ! なってねぇよ……!?」
「わかったわかった」
 どうやら山田も、否定さえしていれば罹患しないという都市伝説信者らしい。
「とにかくだな山田、なんかいいモンくれるとか言われても二度とヨソのオッサンについてくんじゃねぇぞ」
「つーか別に今日は俺に何かくれるって言われたわけじゃねーし」
「──」
「くれんのが俺じゃなくてもついてかねぇよ」
「わかればいい。あとは誓ったことを守れ」
「全くウチのオットはよォ、亭主関白世界選手権に出たら間違いなく優勝だぜ?」
 山田は言って、通りかかった古い煙草屋の前に置かれた錆だらけの灰皿に煙草を捨てた。
「けどさぁ、何つーか、そのさぁ……お前が早く帰ってこねぇかなぁって思いはじめたとこに、ちょーど電話きてさ。以心伝心? みてぇなさぁ」
 それから何かを言い淀むような数秒ののち、珍しいことが起こった。
 不意に佐藤の腕に腕を絡めて身体を寄せた山田が、掻き消えそうに小さな声で呟いたのだ。
「なぁ俺、今日はウチのオットに滅茶苦茶にされたい気分──」
 これは妄想か、現実か?
 
 余談ながら勝手に手紙を渡してしまった野島が娘に数日、口をきいてもらえない事態となるのは、まぁ彼らの知ったことじゃない。
 
 
【END】

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