ナルミというのは会社の同僚の友人で、当時ずいぶん積極的にアプローチしてきた女だった。
 しつこいから何度か遊んだものの、あまりのガッツキっぷりに辟易してLINEの返信もしなくなったら、ある日いきなり部屋にやってきた。
 どうやってアパートを突きとめたのかは知らないが、間の悪いことにそのとき山田は留守で佐藤ひとり。
 どうにか追い払おうと四苦八苦してるうちに強引にかぶりつかれ、そこへ山田が帰ってきたというわけだ。
 正確に言えば山田の姿は見ていない。
 が、ドアが閉まる音がして目を遣ると食いかけのうまい棒が三和土に落ちてたから、山田なのは間違いなかった。
 その瞬間、佐藤は思った。
 あいつ──まだこんなモノ歩き食いしてやがるのか。
 それから山田は数日戻らず、帰ってきたと思ったら何食わぬツラでアッサリ抜かした。オレさぁ引っ越し先決めたから。
 その頃、アパートの取り壊しが決まっていて転居しなきゃいけなかったのは事実だ。佐藤はその先も同居を続ける気でいたが、山田はダラダラと答えを先送りにしていた。それが、突然の宣言だ。
 行方不明の数日間どこにいたのかは聞いてないし、誰に唆されたのかも知らないが、ともかくそうやって特別でも何でもなく厄介なだけだった女ひとりのために、佐藤と山田は長年の同居生活に終止符を打った。
 思い返すと舌打ちが漏れた。
「言っとくけどな山田、別に乳のデカさで選んだわけじゃねぇし、そもそも俺はその女を選んでねぇ」
「そんなの別に俺に言い訳する必要ねぇじゃん、お前の勝手だろ」
 山田が唇を突き出してフーッと煙を吹いた。
 その小馬鹿にしたような表情が無性にイラつく。
「いいからちょっと来いよ」
 床に座ったままの山田をソファに呼ぶが、
「やだね、何でだよ」
 山田は気の抜けた声で灰皿代わりの空き缶に吸い殻を落とした。
「ひとり暮らし始めた途端にいそいそとンなコジャレたモン買いやがってよォ。どーせオネーチャンとイチャコラする用だろ? それ」
「は? そんなんじゃねぇし」
「またまた。すーぐ連れ込んじゃうくせに佐藤くんは。引っ越してから今までに何人座らせたんだよそこに、巨乳のチャンネーを?」
 そっぽを向いた横顔が拗ねたように見えるのも、その目元がほんのり染まって見えるのも、酔いのせいなのか。それとも佐藤の妄想か。それとも──
 唐突に凶暴な欲求が湧き上がってきた。
 無言で立ち上がり、山田の腕を掴んで引きずり上げて有無を言わさずソファの上に押し倒した。
「ちょ、佐藤っ、ヤダって」
「嫌がってるツラには見えねぇな」
 喉元に喰らいつくと、それだけで山田の息が熱を帯びて眼差しがとろりと潤む。ふわりと鼻先に漂ったボディソープよりも、さらに匂い立つようなその表情。
 ほら、見ろ。
 顰めた眉の下の濡れた目を覗いて囁く。
 喜べよ山田。
「ここで抱いた女の誰よりも優しくしてやっから」
「ッ……」
 いまにも泣き出しそうに歪んだ顔も、もはやオスを煽る誘惑でしかない。
 三十も半ばの野郎だというのに、性的な要素を孕んだ途端に纏いつく滴るような色艶は、相変わらずどころか若い頃よりも一層深みを増している。
 その磨きのかかったエロさは単に年輪を重ねたものか、それとも積んだ経験の賜物か。
 ──クソ。
 内心で吐き捨て、言葉にならない拒絶を唇で塞ぐと、山田がひとつ大きく震えた。
 
 
 ほんとは女なんか座らせたこともないソファで、嫌がる山田をさんざん抱いた。
 同居を解消してからというもの、日常のふとした衝動で身体を奪うということもできなくなっていたから、その穴埋めをするように懇切丁寧に、かつ欲望の赴くまま、文字どおり山田の穴を埋めてやった。
 その山田はいま、ベッドでいぎたなく鼻提灯だ。
 終わった次の瞬間にはもう佐藤と繋がったまま寝てたから、仕方なく抱えて運んだ。
 佐藤はソファにもたれて山田の煙草を消費しながら、天井に漂っていく煙を見るともなしに目で追った。
 軽くなったんじゃねぇか? あいつ──ふと思う。
 ひとりになって、ロクに食ってないんじゃないのか。
 何しろ、放っといたらビールとうまい棒しか摂取しないヤツだ。
 ちゃんと眠ってんのか。
 ちゃんと毎日家に帰ってんのか。
 俺がいないのをいいことに、毎晩こうやってどこかで誰かと呑んだくれてんじゃねぇのか──
 柄でもないイラ立ちを着信音が搔き消した。
 時刻は深夜三時半を回ってる。
 そんな非常識な電話は山田宛てかと思ったが、鳴ってるのは佐藤のスマホだった。画面には鈴木の名前。
「あ、おつかれさまです」
 出ると、深夜とも思えない平素の挨拶が聞こえてきた。
「お前は何時だと思ってんだ?」
「え、起きてましたよね?」
 むしろビックリしたような鈴木の声に佐藤こそ度肝を抜かれた。
「あのな、いくら金曜の夜だからってこんな時間寝てるぜ? 大抵。もう若くねぇんだからよ」
「でも起きてるってことは、やっぱ山田さん行ったんスよね?」
「なんで知ってんだ」
「今日、俺のカノジョとウチで飲んでたんですよ。山田さんも一緒に」
 鈴木には二、三カ月前から付き合ってる女がいた。
「途中からメンズブラの話になって、山田さんと俺で滅茶苦茶盛り上がってたら、そのうち山田さんが彼女にブラを貸せとか言い出してシャツを脱ぎはじめたんスよ」
 メンズブラって何だ? 佐藤は思ったが、訊くのも面倒でスルーした。
「そしたら彼女、怒って帰っちゃって」
「それで貸したらすげぇ女だけど普通は貸さねぇよ。つーか、山田を混ぜたら毎度そのパターンじゃねぇか。お前は学習ってものをしねぇのか鈴木?」
「まぁ、山田さんを許容できない程度の女とはどうせ続きませんし」
 鈴木の言い分はよくわからなかったが、今夜の山田が女の乳にこだわった端緒だけは何となくわかった。
「で、二人になったらちょっと飲み過ぎたっぽくて。気がついたら山田さん、荷物まるごと置いて帰っちゃってたんスよねぇ。で、鍵もここにあるし、佐藤さんのとこに行くだろうなって思ってたんですけど」
「そりゃまぁ、来たけどな」
「とにかく行ったんならいいっすよ。一応安否確認しようと思ってたのに俺うっかり寝てて、起きたらこの時間で。すみませんね」
 悪いと感じてるふうもなく鈴木は言い、続けた。途中でのたれ死んでたりしてなくて良かったっすねぇ。
「あぁでも鍵がここにあるから、結局土日の間に……あ、大家さんに開けてもらえばいいんですかね」
「いいよ俺持ってっから、山田んちの鍵」
 佐藤が欠伸混じりに言った途端、電話の向こうが沈黙した。
「何だよ?」
「あ、いえ何でも……へぇ、それはそれは」
「はぁ? 何だよ?」
「いやいや何も、よかったよかった」
「だから何がだよ」
「おつかれさまです。では」
「おい鈴木」
 通話は一方的に終了した。
 佐藤は黙り込んだ画面を眺めてから、短くなった煙草を消した。
 鈴木のところからだと、ここまで徒歩で一時間半くらいか。いや、酔っ払いだから二時間くらいか……
 どうでもいい考えを巡らすそばから、電話を切る間際の鈴木の声が蘇る。
 ──それはそれは?
 ──何かまずいこと言ったか? 俺?
 
 
【END】

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