布越しに手のひらに伝わる筋肉の感触。締まっていても厚みは感じさせない、むしろ細身でしなやかな硬質の弾力。
 開脚した足先に向かって身体を倒す千葉海志の腰を押しながら、熊沢恵介はその手ざわりにうっとり酔いしれた。ピンク系でちょっぴりのラメとスワロフスキーをあしらったキュート系ネイルの指先が、千葉の道着を優しく圧迫する──
「緩い、熊沢恵介っ」
 伸ばした腕の向こうからピシャリと声が飛んできた。
「意味ねぇだろ、そんなフニャフニャ押してても!」
「もうっ、フルネームで呼ばないでって言ってるじゃない! カイくん!」
 某有名ニューハーフタレントに似てるとよく言われるハスキーな声で可愛く怒ってみせても、千葉海志にはまるで効果がない。
「親がつけた名前に文句垂れんじゃねぇよ、いいから押せっつーの、もっとグイグイ」
 二の腕の下から覗く顔に、寝グセの髪が落ちかかっている。言われたとおりに力を込めると、千葉の身体は柔軟に沈んでいった。
 グイグイね。はいはい。あー、グイグイ入りたいなぁ、カイくんの中に。腰骨を押す手を内側に滑らせる誘惑に耐えながらケイは妄想を巡らせた。
 一度、そうなる機会はあったのだ。去年の忘年会の夜、みんなと別れてまんまと千葉ひとりを自宅にお持ち帰りした、あの時。
 すでに酔っぱらってた千葉にもっと飲ませて、床で潰れたところでジーンズとパンツを脱がせて突っ込む気満々だったが、さぁいただきますという刹那、覚醒した千葉の後ろ蹴りっぽい技でフッ飛ばされて掛け蹴りっぽい技でブッ倒れた。気がついた時には千葉はもういなくて、絶好調に勃起してたナニもすっかり萎えきってて、顔面に足の裏を喰らった時の衝撃で垂れた鼻血が乾いてた。
 まったくもぅ……目が覚めるまでは、あんなにイイ感じに反応してたくせにさぁ?
 千葉だって掴んで扱いてやったら気持ちよさげにしてた。もっと、ってねだるように腰を蠢かして、ローションをたっぷり絡めた指を尻の穴に突っ込んでも、酔って弛緩してるせいか案外すんなり受け入れた。それどころか、出し入れしたり指を増やしたりするとヒクヒク震えて想像以上に色っぽい声を漏らしたし、ナニも順調にサイズアップしていった。
 あの姿を思い出すたび、ケイのムスコは熱を孕んでしまう。
 そしてムスコが熱を帯びるたび、切らなくて良かったとつくづく思うのだった。
 数年前、熊沢恵介はオネェ仲間とタイに手術を受けに行く予定にしていた。が、その直前、友人と会うためにたまたま訪れたこの道場で千葉海志と出会ったのだ。
 千葉の帯はまだ緑色だったが素人目にも蹴りがキレイで、フザけて跳ねてる時に頭の寝グセも一緒に跳ねてるのが印象的だった。身体が軟らかくて、誰とでも同じように接していて、ガーリーなフリフリワンピを着ていたケイが実は男だとわかっても眉ひとつ動かさなかった。かわりに淡々と訊いた。
「やんの? テコンドー」
 やると即答してしまったのはなぜだろうか。全然そんなつもりなかったのに。脇にいた友人も目を丸くしてた。
 でも一緒にやりたいと思ったのだ、その寝グセ男と。毎週会えるならテコンドーが柔道だろうが相撲だろうが何だってやれると思えた。
 ──とりあえずまぁ恋? みたいな?
 そしてタイでの手術はやめた。
 正直それまで、己の性別に違和感を抱いてはいても、コレという男に惚れたことがあるかと言えばそうでもなかった。とにかく少しでも本物の女に近づいて、本物よりは成就への道のりは険しいかもしれないけど、女として恋をしたかった。それに本物よりも女らしい女になれる自信だってあった。何しろ近ごろの女なんて、ガサツで気が利かないコトこの上ない。自分の方が全然マシだと胸──残念ながらまだシリコンは入れてない──を張って言える。
 が、しかし。
 実際にコレという男を前にした途端、躊躇が生まれた。股間のイチモツを残しておけば千葉海志にアプローチする手段が2通りになると思ったのだ。いざとなったら、男として手に入れるという手段もある。
 そして一度、男としてチャレンジしたが頓挫し、現在に至るというわけだ。
 その後なかなか次のチャンスが訪れないことに悶々とはするものの、救いは千葉海志の態度が一切変わらないことだった。忘年会の夜に失敗するまでと変わらず、千葉は自己中だし遠慮のない物言いをするし、ケイが嫌がるフルネームで叱り飛ばす。我ながらマゾっぽいなぁとは思うけど、その態度が嬉しい。
 が最近、少々気がかりなことがある。
 前傾に入った千葉の腰を後ろから押し込みながら、ケイはチラリと壁際に目を走らせた。
 パイプ椅子に座ってこちらを見ている千葉の連れ。会社の同僚のメガネくん。現れたのは3度目だが、一緒にはじめる気配はいまのところない。そして2度目までは練習の途中で現れたナカジマという名前の彼は、今日は千葉と同伴でやって来た。
 ひょっとして昨夜泊まったとか。だとしても同僚であると同時に友人でもあるようだし、それ自体はおかしなことじゃないのかもしれない。
 でも、わかってるのと見せつけられるのとじゃ気持ち的に別モノだ。
 たとえ2人が単なる同僚で友人で、ケイが嫉妬するような要素なんか何ひとつないとしても、だ。
 
 
 そう、千葉海志と中島深幸の間に、熊沢恵介がヤキモキするような事実はない。
 ただある意味、知ったら多少はヤキモキしそうな出来事ならあった。
 前日の土曜の午後、千葉の自宅には中島が来ていた。防犯体制を見学しに来るとかいう話だったけど、もともとそういうジャンルに興味がない男は案の定、千葉がウキウキと紹介するグッズの数々にも「ふーん」とか「へぇ、すごいね」程度の反応しか示さなかった。
 一緒に盛り上がるでもないからネタはすぐに尽きて、2人で市ヶ谷の釣り堀に行った。2時間座って釣果はなかったが、なんと中島はフィッシュセンターのメンバーズカードまで持っていた。
「もしかして隠れ魚マニア?」
「いや別に、そういうわけじゃないけど」
 前に一度来た時、当時付き合ってた彼女にねだられて金魚と飼育セットを買ってあげたんだと中島は言った。本当はナマズが欲しかったらしいと言うが、いったいどんな女だったんだろう。
 それから外堀通り沿いの居酒屋でメシを食って帰ると、ドアポストの口に茶封筒が挟まっていた。
 もしや、と思い引っこ抜いて覗けば、中身は案の定1万円札だった。それを確認した途端、千葉の胸に怒りが込み上げた──カネをこんなとこに挟みやがって!!
「杜撰だろ! ちゃんと中まで押し込んどけよ! 俺が帰るまでに誰かに持ってかれたらどうすんだよ!?」
「そこ、ツッコむとこ?」
 中島が冷静にツッコんだが、なぜそんなに呑気でいられるのか千葉には理解できなかった。
「当たり前だろ、意味ねぇだろ、俺が受け取らなかったらっ」
「意味ったって、別に受け取ったからって遊んであげるわけじゃないしねぇ、どうせ」
「遊んでやるかどうかは俺の自由だし、ほかのヤツに持ってかれてみろ、カネ取るだけ取って遊んでやってねぇとか思われるじゃねぇか、俺が!」
「前回だって取るだけ取って遊んであげてないじゃん? 焼肉食べたんだよね?」
 相変わらず呑気にツッコむ中島に、千葉は舌打ちした。
「前回は前回、今回は今回、明日は明日の風が吹くんだぜ」
「せっかく自分ちに入ってたカネなのに盗られでもしたら腹が立つって正直に言いなよ。他人のカネで肉食いたいだけだろ?」
「今度は肉以外のモノでもいいかなぁ、中島お前何食いてぇ?」
「やっぱ食べるんだ」
 それより中入ろうよ鍵開けてよ、と促す中島の声でようやく鍵を出して玄関を開けながら、千葉は言い訳がましく反論した。
「いまじゃねぇよ、いまは食ってきたばっかじゃねぇか」
「今日だろうが明日だろうが、食べることには変わりないじゃん」
「何なんだお前は小姑か。イタ電かけてくるヤツが寄越したカネでメシを食うぐらいでゴチャゴチャ言うんじゃねぇ、カネは天下の回りものなんだぜ中島」
「御託はいいから、遣うんだったら一回ぐらい遊んであげたら?」
「何して?」
「電話きた時にでも訊いてみなよ」
 そして電話は2時間後にかかってきた。
 フロも入り、電気を消して千葉はベッドに、中島は床の毛布の上にそれぞれ寝転がって煙草を吸いながらテレビを観ている時だった。
 暗がりの中、テレビの明滅に混じってスマホの窓が四角く灯った。非通知で、何の設定もしてないからノーマルな着信音でありながらもやけに挑発的な鳴動がはじまった瞬間、千葉と中島の視線が素早く交叉した。
 来たんじゃないの海志くん、中島の目はそう語っていた。
 言われるまでもなく、いつも相手にしてくれない千葉を責めるように呼びつけるスマホを、今日はサッと拾って開いた。
「ためしに要求を第3希望まで言ってみろ」
 繋がると同時にそう言うと、とりあえず沈黙が返ってきた。
 電話の向こうには間違いなく何者かの気配がある。しかし何も言わない。無言の応酬。そのまま10秒経過する頃には、千葉の神経は早くもザラつきはじめていた。千葉は待つということが苦手な男だった。
「おい」
 待つのは苦手だったが、こういう時ぐらい待ってみるべきだろうと自らを戒めた。
「特別にあと20秒待ってやるけどな、要求がねぇんなら二度と電話してくんな」
 ベッドの上で横になってTシャツに突っ込んだ手で腹を掻きながら猶予を与えると、テレビに目を遣ってしばらく待つことにする。
 やがて、低く抑えた小さな声が聴覚を引っ掻いた。
「──あの」
 男だ。声だけで判断するなら、予想してたよりもトシ食ってる印象。
 跳ねるように姿勢を変えて「何だよ」と応じると、床の中島が起き上がって身を乗り出してきた。電話の向こうの男がやや遠慮がちに申し出た。
「20秒とっくに過ぎてるけど?」
「ッ、ンなどうでもいいとこにツッコむんじゃねぇ! しょうがねぇだろテレビ観てんだから、いいから何してほしいのか素直に言えよっ」
「えっと、じゃあ……」
 そのあと続いた要求の冒頭部分だけ聞くと、千葉は無言で電話を切った。
「変態野郎が」
「何? なんて?」
 ベッドに寄りかかっていた中島が見上げてくる。千葉は舌打ちしてスマホを放り、煙草の箱を引き寄せて1本抜いた。火を点けて煙を吐く間、男の声が耳の中に蘇ってきて忌々しく指でほじった。
「なんか女児にハァハァする変質者みてぇに、じゃあまずズボンとパンツを下ろしてね、つったから切った」
「──」
 中島が口を開けたまま数秒黙る。
「──男?」
「野郎。なんかわりとオヤジだった、変に遠慮っぽい喋り方する感じで」
「え? オヤジ?」
 中島も意外に感じたらしく、眉を上げて訊き返した。頷くと、何か納得いかない様子で「オヤジねぇ」と繰り返している。
 そりゃ千葉だって納得いかない。ひょっとしたらひょっとして、イタ電の主はどこかの欲求不満な若妻っていう可能性もゼロとは言えない、なんていう淡い夢はこれで潰えたわけだ。
「声に聞き覚えとかは?」
「全然ねぇ」
「万札をポストに入れるようなオッサンがイタ電かけてきて家まで来てるとか、相当ヤバくない?」
「ヤベェよなぁ、あ、リモコン取って」
「なんでそんな呑気なんだよ、海志くん」
 中島は不満げにテレビのリモコンを拾って差し出した。
「別に呑気にしてねぇよ、いつでも迎え撃てる態勢は整ってるし」
「海志くんがパンツ下ろしたら何させるつもりだったのかなぁ」
「そりゃお前、オナれとか言うつもりだったんじゃねぇの? 普通に考えたら」
「普通かなぁそれ。脚開いて自撮りしろ、とかだったかもしんないじゃん」
「欲求不満の若妻みてぇな感じでか?」
 千葉はベッドの上で胡座の股間を掴むと、腰を捩るような姿勢で悩ましげに指を噛んで流し目をくれた。中島がまた口を開けて数秒黙った。
「……何やってんの海志くん? ていうかなんでそこに欲求不満の若妻とか出てくんの? 急に」
「や、別に」
「ていうかオナらせてどうすんの?」
「は? オナラしてどうするって?」
「違う、屁の話じゃない。海志くんが電話のこっちでオナッて、そのオッサンは何が楽しいわけ?」
「そりゃお前、エロい声とか聞きてぇんじゃねぇの? 普通に考えたら」
「普通かなぁそれ。だって男だよ?」
「だってそれ以外に何があんだよ」
「海志くん、オナッたらエロい声出んの?」
「さぁな」
「ちょっとやってみせてよ」
「──」
 千葉は煙草を咥えたまま黙って友人を見返した。いまのは本気で言ったんだろうか?
 中島の表情はフザけてもいないし、かといって興味津々という風でもなく、ましてや欲求でギラギラしてたりハァハァ興奮してもいなかった。たまによくわからない時がある男だけど、やっぱりよくわからない。
 それから目を逸らして、煙を吸って吐きながら記憶を掘り起こしてみた。──俺ってオナッてる時、声なんか出てっかなぁ?
 考えてもわからなかった。
 3万円、と言って手のひらを出すと、中島は「じゃあいい」とソッコー翻意した。
 
 
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