ハートランドのグラスを、ひとつは友人の前へ。もうひとつは友人の連れの前へ。
 それから灰皿を差し出しながら、糸井智康はカウンタの向こうに座る優男のメガネくんをそれとなく観察した。
 池尾の説明どおり、中島深幸は痩せて背が高くてメガネをかけていた。それ以上でもそれ以下でもない、人畜無害な空気感のサラリーマン。サザエさんワールドの中島くんだという池尾の言葉を思い出す。
 強いて付け加えるなら、どちらかといえば大人しめの印象で、すごくモテるというわけじゃないにしても、まぁこういうタイプが好きな女はいるだろうなと思う程度。ただしいわゆる草食系とかいうヤツとは、何か一線を画す気配がそこはかとなく漂う。
 が、しかしだ。
 シンクの中のグラスを洗いながら、糸井はまたチラリと中島を見た。
 ──この優男が自分を椅子で殴り倒したのか?
 というよりも自分は、この優男に殴り倒されたってのか?
 客観的に見れば当然あって然るべきであろう怨恨らしき感情は、実はそれほど糸井の中には存在しない。そんなモノは通帳の数字と一緒にほとんど消え失せた。でもできることなら、コイツにならやられてもしょうがねぇよと己を説得できるような男が相手であってほしかったというのはワガママだろうか?
 いずれにしても、目の前の男が本物の『中島深幸』なのかどうかを確認したい欲求はある。
 頭の中に棲む中島は、いつも影絵のように黒く塗り潰された姿でしかなかった。唯一具体的な何かを挙げるとすれば、椅子を振り上げた瞬間の爬虫類みたいに冷え切った目か。といってもソイツはあくまでイメージであって、少なくとも蛇の目は意外に愛らしい。
 とにかく、いきなりこんな風に何の変哲もなく健全な形で現れたところで、ハイそうですかとは納得しがたい。
 さっきからチラチラとこっちを窺ってる池尾に「連れてきたお前が何とかしろ」と言いたいのを我慢して、どうしたものかと考えていたら、ふと中島が糸井に向かって口を開いた。
「いいお店ですね」
 当たり障りのない社交辞令。
「それはどうも」
「ご自分のお店だって池尾さんから伺ったんですけど、すごいですねぇ、好きなことを仕事にできるのっていいですよね」
 お前のパパがくれたカネで出した店だ、と言ってやったらどんな顔をするんだろうか、この男があの中島深幸なら。
 でもノドまで出かかるのを堪えた。今夜の客はこの2人だけじゃない。世界には自分たちしか存在してないんだと思い込んでいそうなカップルが1組、テーブル席を陣取って見つめ合っている。万一、何かのはずみで中島がカウンタのスツールを振り上げるような事態にでもなったら面倒だ。
 今日はツラを見ただけで良しとするか──糸井はカウンタの中で煙草を咥えた。池尾の手元を見ると、珍しく自前の箱を持参している。が、なんで糸井と同じ銘柄なんだか。
「まぁ好きっていうか、他にできることもないんで」
「全部1人でされてるんですか? ここは」
「はぁ、まぁ」
「大変ですね」
「いや、見てのとおり繁盛してるとは言い難いし」
「常連さんが多いんじゃないですか? 池尾さんみたいな」
「コイツは来る時は続けて来るけど、来ない時は全然来ませんよ」
「常連ってそういうものですよね。池尾さんとは長いお付き合いなんですか? 同じ年なんですよね、えっと……」
 中島が言い淀んだ瞬間、ひょっとして名前を訊ねようとしてるのかと思い至って背筋に緊張が走った。が迷う間もなく、池尾が横からサッと言った。
「糸井です。糸井智康」
 牽制する間もなかったが、果たして中島の反応はイマイチだった。
「糸井さんですか。あ、すみません中島と申します」
 反応がイマイチどころか、ごく普通にスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、1枚抜いて寄越した。こないだ池尾が持ってたのと同じ名刺だ。紙面には間違いなく中島深幸の文字列。しかし──
 もしかしたらもしかして別人なのか?
 恐ろしいほどの偶然で、こんな名前の男がこの世にもう1人存在したってだけなのか?
 いくら何でもこの中島があの中島なら、自分が半殺しにした相手の名前すら知らないってことはないはずだ。いくら、当時子供だったとは言え?
 見ると池尾も戸惑うような視線を返してきた。どういうこと? と訴える目に、知るかとこちらも目で答える。
 が、まぁ、池尾のちょっとした暴走は計算外だったものの、今夜は事なきを得た方がいいと思ってたからこれでいいのかもしれない。中島の反応については改めて池尾と検証すればいい。この期に及んで何も急ぐことはない。
 糸井が思い直して灰皿に灰を落とした時だった。
「あの、中島さん」
 池尾がやけに真摯な目を中島に向けた。
「失礼ですが、小6の時に同級生を椅子で殴り倒したことはありますか」
 歯切れ良く質問した次の瞬間、人の好さそうな中島の表情が動かなくなり、2人の世界に浸りっぱなしだったテーブル席のカップルがオーダー以外ではじめてこっちを見た。
 
 
 睡魔が忍び寄ってくる午後2時すぎ。
 眠気覚ましに便所に行った帰り、千葉海志の背後を通りかかった中島は、寝グセ越しに見えるディスプレイに目をとめた。
 真面目に仕事してるのかと思いきや、よくよく覗き込むと護身グッズショップの小型カメラのページだった。画面には腕時計型だのペン型だのっていう隠しカメラが並んでる。
「俺の後ろに立つな」
 ディスプレイを見つめたまま千葉が言った。
「こないだ海志くんを後ろにしたら怒んなかった?」
「俺の前も歩くんじゃねぇ」
「前も後ろもダメなら重なるしかないね」
「重なるってどうやって」
「俺が海志くんの中に入るとか」
「お前の方がデケェのにどうやって入んだよ、俺がお前を被る方が現実的じゃねぇか」
「被るって皮じゃないんだから。ていうか何、盗撮でもすんの?」
「はぁ? しねぇよ」
「何に使うの、そういうカメラとか」
 いま、ディスプレイには百円ライター型カメラのページが表示されていた。仕様説明と写真。まず普通のライターにしか見えないし、そのへんの誰かのデスクに置いてあったって撮影されてるなんてわからないだろう。そして見かけによらず高価だ。盗撮目的以外でこんなものを買うヤツがいるとは思えない。
 千葉は「防犯」とだけ短く答え、椅子ごと回って振り返った。
「一服してきたのか?」
「いやトイレ」
「じゃあ煙草吸いに行こうぜ」
 言って立ち上がった千葉はさっさと部屋の出入口に向かい、中島は一旦自席に戻って煙草のボックスを手に引き返した。喫煙所に着いた時には、千葉はもう煙を吐いていた。
「お前のその煙草まだなくならねぇんだなぁ、いつまで経ってもマイナーなのに」
「何言ってんの、失礼な」
 中島が愛飲してる煙草はたしかにマイナーで、国産だが輸入銘柄と間違えられることも多い。コンビニでの入手はまず期待しない方がいい。当初あったはずの5ミリはいつの間にか姿を消していた。何しろ1ミリも1ミリらしからぬタール感だが、5ミリの騙し討ちっぷりはその比じゃなかった。
 中島が1本咥えて火を点ける間、黙って壁際の自販機の品揃えを眺めていた千葉が、そのままの姿勢で「最近さぁ」と口を開いた。
「なんかイタ電みてぇなの来んだよな」
「イタ電?」
 訊き返して横顔に目を遣ると、千葉は眠そうな欠伸を漏らしながら頷いた。
「そう夜とかに。非表示だからずっと放っといたんだけど、毎晩かかってくっからこないだ出てみたら、なんか溜め息ついて切られた」
「溜め息は失礼だね。海志くん、出て何言ったの?」
「俺と遊びてぇならカネ払えっつった」
「そしたら?」
「朝、ドアの郵便受けに1万円入ってた。茶封筒で」
 中島は無言で千葉の表情を窺い、数秒おいて「マジ?」と訊いた。千葉が頷く。
 で、そのカネはどうしたのかと訊ねると、眠そうにボヤけてたツラが突然ニタニタと緩んだ。
「あー、焼肉食った、ケイと」
「はぁ?」
「や、日曜だったからさぁソレ。どうしようかと思ってとりあえずジーンズの尻ポケットに入れといたんだけど、ずっとそのままんなってて。テコンドーの練習終わって2人で焼肉屋行った時まだ入ってたから、ま、いっかなぁとか思って遣っちゃったんだよなぁ」
「──」
「いやいや赤の他人のカネで食う肉はまた格別だったよ、中島くん」
「あのさ、それ、遊びたいなら払えって言ったカネだよね、イタ電の相手に」
「まぁたぶんな? てかそれ以外心当たりねぇし」
「遣っちゃったら遊ぶの承諾したことにならない?」
「ノコノコ現れんのかよ? ソイツが。てか何して遊ぶんだよ」
「知らないよ。海志くんが言い出しっぺじゃん。とにかくわかんないけどポストにカネを入れたってことは家まで来てるってことだし、マズイんじゃないの」
 あんなに護身グッズを集めてるくせに、危機管理の概念っていうのは別次元なんだろうか。そりゃ護身グッズの数々にしても、集めるのが趣味なだけみたいな感じではあるけど、それにしても。
 イタ電の主がドアポストに放り込んだと思われるカネで、焼肉を食うか普通──
 呆れて溜め息が出たが、千葉の方は全然マズイなんて思ってる風もない。
「まぁなぁ。だから一応、防犯を強化しとこうかなぁとか思ったりしてんだけど」
「もしかして、それでさっきのカメラとか見てたわけ?」
「まぁそれもある」
「ところで根本的な質問だけど、非通知の着信を拒否ったりする気はないの、海志くん」
「えー? だってせっかく面白ェのにもったいねぇじゃん」
 呑気に言って煙を吐く千葉を眺めていた中島は、ふと、その姿が生気に満ち溢れてることに気づいた。
「海志くん、なんか生き生きしてるね。ちょとなんか、顔はすごい眠そうではあるけど」
「あ、そう? や、なんか生活に張り合い出てきたっつーか。そんでここんとこ毎晩いろいろ考えてたら夜中ンなってて、ちょっと寝不足だけどさぁ? まぁそれも醍醐味っつーか」
「醍醐味ね。海志くんがいいならいいけど、気をつけなよ」
「心配すんな、任せとけって」
「その軽さが心配なんだよなぁ。ていうかその、いろいろって何を考えてるわけ?」
「だからいろいろ、イタ電かけてるヤツの正体とか、ポストにカネ入れてるとこ想像したりとか、玄関のドアんとこに防犯カメラとか付けてぇなぁとか」
「賃貸だけど防犯カメラとか付けたら近所から苦情こない?」
「なんで?」
「いや、通りかかった時に撮られてたら嫌だとかないのかなって。連れ込んでる相手を誰にも知られたくない人とかいないかな」
「知らねぇよ、んなの。てかドアの覗き穴を防犯カメラに付け替えたりできるし」
「へぇ、そんなのあるんだ。付けるの? 見に行っていい?」
「あ、何。もしかしてお前も目覚めてきた? 身を護る世界に」
「別に目覚めないけど、海志くんがどうもゲーム感覚っぽいから、ちゃんと対策してるとこチェックしに行こうかな的な」
「目覚めてもねぇお前がチェックしたところで無意味だと思うけどな、まぁ見てぇなら来ればいいじゃん? てかまた練習見に来いよ、ケイも会いたがってんぞ」
「え? いや会いたがる理由なくない? むしろ俺のこと敵視してんじゃないの、彼……彼女?」
「はぁ? 敵視ってなんで?」
「海志くんを奪られるんじゃないかとか、警戒してんじゃないかなぁって思って」
「奪るも何もお前、俺はケイのモンじゃねぇっつーの」
 千葉がそのつもりでも、向こうもそうだとは限らない。思ったが口には出さなかった。
 本気で惚れてるかどうかは別としても、先日練習を訪れた際の別れ際の嫉ましげな表情が演技だけとは思い難い。
「その後、何か進展はあった? 彼女と」
「だからアレは女じゃねぇっつってんだろ、進展してたまるかよ」
「でもまぁ可愛いよね。ほら、あれに似てるよね。あの……」
 某有名ニューハーフタレントの名前を出すと、千葉は「あーまぁな」と一応の賛同はしたものの、すぐに渋い顔つきで小刻みに首を振った。
「あそこまで気合い入ってねぇよ。どうせならあれぐらい極めりゃいいのに、なんか半端なんだよなケイは」
「極めたら受け入れる?」
「受け入れるってお前、ケツにか?」
「違う、そっちじゃなくて。彼女の気持ちを」
「いまタラレバを言ってもしょうがねぇだろ、極めたらそん時に改めて考える」
「でも別にそれは、彼女の本質が変わるわけじゃないじゃん?」
 中島の声を、千葉のウンザリした目が跳ね返した。
「あのな。彼女彼女ってお前、完全にケイを女として見てるみてぇだけど、俺に突っ込もうとしたんだぜ? アイツは」
「あぁ、まぁ、そうだけど。じゃあそれを踏まえて位置づけるなら、海志くんが女ってことになるのかなぁ」
「はぁ? お前は何だ、俺がケツを掘られればいいとか思ってんのかホントは」
「いや思ってないけど、それは海志くんの自由意志だから」
「まずお前が試せよ、そんで良かったら俺もやってみるから」
「何だ海志くん、良ければやってみる気はあるわけ?」
「どんなに素晴らしい体験だったかを俺にうまく説明できたらな。お前のプレゼン能力にかかってんだ、期待してるからヨロシク」
「その時は実地で説明するよ、海志くんの身体を使って」
 笑って言った中島を、千葉がちょっと無言で眺めた。唇の端に挟んだ煙草からゆらゆらと紫煙が立ちのぼっている。
「何?」
「いや、なんか調子よくねぇ? なんかいいことあったのかよ」
「別に何もないよ」
「とか言って、こっそりオンナとかできてんじゃねぇだろうな」
 探るように言った千葉の目が、ふと何かを思い出したように天井を仰いだ。
「あ、そういやお前を狙ってるホモの営業マンだけど、今日電話あってさぁ」
「ん? うん。いや俺を狙ってはないけど」
「メシ食いに行ったんだろうが、俺がいねぇ時を見計らって2人で」
「別に見計らってないし、海志くんがいなかったのは残念だけど、接待とかで奢られたわけじゃないから。ワリカンだから、何度も言うけど」
「逆に怪しくねぇか、なんでそんなフレンドリーな関係を築いてんだよ? いきなり」
「妬いてんの? 海志くん」
「どっちにだよ、てかだからそのホモの営業がな、今日電話かけてきた時にまた中島さんいますかって訊いてたぞ。お前いなかったけど」
「あ、そう。何か用事だったのかな」
「知らねぇ。いないならいいですって今日も言ってたけど。デートに誘おうとか思ってたんじゃねぇのかよ、また」
「海志くん、やっぱり妬いてんじゃないの?」
「はいはい、妬いてますよ」
 投げ出すように答えた千葉が、煙草を消してウーンと伸びをした。
「コーヒー奢れよ中島、こないだ奢ってやっただろ」
「そんなギブアンドテイクみたいな理屈つけなくても奢ってあげるけどね、いまはカネ持ってきてないよ」
 千葉が舌打ちしてポケットに手を突っ込んだ。ジャラジャラと小銭の音がした。
「しょうがねぇ、奢ってやっから何にするか言えよ」
「海志くん、いい加減財布持ちなよ」
 
 
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