ビニル袋をガサガサ言わせながら歩いていると、尻ポケットのスマホが震えはじめた。
 そろそろ春を抜けて初夏に向かいはじめてるような、そんな気配を感じる平日の午後。用事があって出かけたついでに早めに店に行くことにして、途中でちょっと買い物もしてきたところだった。
 糸井智康はビニル袋を持ち替え、ジーンズの尻からスマホを引っぱり出した。発信者をチラリと目で確認して通話をオンにする。
「もしもし?」
「あー、トモか」
 わかりきってることを毎回訊く声。あぁと答えると、電話の向こうの男は何か言いづらそうな口調で「あのさぁ」と切り出してきた。
「例のあの、頼まれてた件だけど」
「うん」
「喋っちまったんだよねー、彼と。大丈夫かなぁ、いや別に大丈夫だろうけど、一応言っとこうと思って」
「は? 彼って……え?」
 アルコールの瓶も3本入ったクソ重いビニル袋を片手に提げたまま、糸井は道端で足を止めた。まっすぐ前方にはもう店の入り口が見えてる。それでもその場に立ち尽くして電話の声を反芻し、少し考えてから溜め息を吐いた。
「喋ったって──千葉海志とか?」
 
 
 チバカイシ。
 糸井はその男を直接知らない。糸井にとってそれは友人である池尾が勤める会社の取引先の人物で、先日池尾が連れてきた中島深幸の同僚であるというだけの存在でしかない。顔も見たことがなければ、どういうヤツなのかも知らない。
 なのになぜ、こんな風に糸井の日常にかかわってきてるのか。それもこれもみんな、あの夜に遡る。池尾が中島を連れて店に来た夜。
 結論から言えば、その中島深幸があの中島深幸なのかの確証を得ることはできなかった。が、確証は得られなくても確信はした。
 小学6年生の時、糸井を椅子でメッタ打ちにして生死の境を彷徨わせた同級生。そもそも顔を憶えてないし糸井の名前を聞いても無反応なモンだから、もしかしたら同姓同名の他人なんじゃないかって思いはじめていた疑念は、相変わらずデリカシーの欠片もない友人のセリフによって9割方払拭された。
 
 
「失礼ですが、小6の時に同級生を椅子で殴り倒したことはありますか」
 やけに真摯なツラで──あとで本人から聞いたところによれば、緊張してただけらしいが──池尾がキッパリ訊ねた瞬間、人畜無害そうな中島の表情がピタリと静止した。
 同時にオーダー目的以外ではじめてこっちに顔を向けたテーブル席のカップルは、何か不穏な空気を感じ取ったのか、それからほどなく支払いを済ませて出て行った。
 糸井はうんざりしながらも、カップルを見送りついでに表に『CLOSE』の札を掛けて戻った。そしてその間も、貼りついたような中島の人畜無害ヅラは変わっていなかった。
 いや、変わってないように見えた。見えただけだ。
 カップルが帰ったあとの静寂をゆっくりと打ち破った中島は、明らかに別人へと変貌していた。
「何のお話ですか?」
 穏やかに問う口調。いや口調だけだ、穏やかなのは。
 メガネの奥で細められてる目は微笑みじゃない。たとえるならそれは、獲物を狙う爬虫類でも思わせるような目。ひんやりと冷え切った眼差しは、質問した池尾じゃなく糸井を捉えていた。
 デジャヴ。
 小学6年生の糸井智康は椅子でこめかみをブン殴られる直前の一瞬、たしかにこの目を見た。
 中島の隣では真摯なツラのままの池尾が、まるで踏み出した足で犬のクソでも踏んづけたかのように固まっていた。
 固まりてぇのはこっちだ、余計なこと言いやがって──舌打ちしたい気分で友人をチラリと睨み、糸井はそばに伏せてあったグラスを取り上げて拭きはじめた。
「イトイさん、でしたっけ」
 声がして、視界の端に煙草のパッケージからゆっくりと1本引き抜く指が見えた。頷くと中島がさらに言った。
「すみません、もう一度フルネームを教えていただけますか?」
 糸井は答える気になれず、無言で抽斗のひとつを開けてケースのまま突っ込んである名刺を1枚抜き、差し出した。滅多に使うことのないそれは、かつて店の常連だった女が作ってくれた。その手のデザインの仕事をしていて、気まぐれだがいい女で、ほんの一時期、糸井のものだった。
 池尾がチラリと中島の手元を覗き、名刺なんかあったのかよ? とでも言いたげな目を寄越す。お前には関係ねぇと目で返していると、名刺を見つめたままの中島が口の中で噛みしめるように何ごとか呟いた。
 ひょっとして、さっきはピンと来なかったらしい名前が池尾の質問と繋がったのか。糸井は息を殺して気配を窺いながらグラスを拭く作業に戻った。
 やがてライターを摺る音がして、嗅ぎ慣れない煙の匂いが漂ってきた。中島の隣で池尾も、まるで喫煙という行為に逃げ道を探すかのように煙草を出して咥える。
 中島が目を上げた。果たしてヤツは言った。
「格好いい名刺ですね」
 そう言い、一層目を細めて見せたのは笑顔のつもりか。しかしどう見ても、ロックオンした獲物を前にして先の割れた舌をチラつかせる爬虫類にしか思えない。
 鰐ならアリゲーターじゃなくクロコダイルだろうが、鰐は舌をチラつかせたりしない。細長くて冷たく冴えた印象から、やっぱり蛇──
「会社の名刺も、もうちょっとデザイン面を考えればいいのに。そう思いませんか池尾さん?」
 いきなり鎌首を、いや矛先を向けられた池尾が煙に噎せた。
「大丈夫ですか」
「あ、はぁ、えぇ……えっと」
 同級生を椅子で殴り倒したことがあるかという質問を宙ぶらりんにされたまま、まるきり無関係の問いを喰らった池尾が当惑げなツラを一旦こっちに向けてくる。が、糸井が無視していると仕方なく自分で対処した。
「まぁクリエイティブな職種じゃないから、見た目より機能重視になるのはしょうがないですよね、お互い。そういえば、うちもデザイン部門と営業部門では違うんですよ、名刺のデザイン」
「へぇ、なるほど」
「そういえば、次回はデザインの人間を連れて伺う予定にしてますんで、よろしくお願いします」
「あぁそうですか、デザイナの方もご一緒に……女性ですか、男性ですか」
「あ、残念ながら男性になると思いますけど、女性の方がご希望でしたら都合をつけて連れて行きます」
 気づけば池尾は速やかに営業職モードに入っていた。意識的にペースを合わせたものか無意識なのか、爬虫類から人間に戻った中島が苦笑いを浮かべる。
「いえ別に男性で構いませんよ。訊いてみただけです」
「ちなみに中島さんは、どういうタイプの女性がお好みですか?」
「はぁ、特に決まったタイプというのはありませんが」
「失礼ですが、いまお付き合いなさってる方なんかは」
「いまはフリーです」
「もったいないですねぇ、そうだ、もしよかったら今度いい店にお連れしますよ」
 もはや興味を失った糸井が我関せずの体で聞き流していると、中島がサラリと躱した。
「ここもいいお店ですよ?」
 言って、どう返すべきか迷ったらしい池尾から糸井に視線をシフトする。その笑顔の意図が量れない。指に挟んだ煙草の煙がゆらゆらと立ちのぼっている。まるで、踊らされてる蛇のように。
「糸井さん。未知なる敵って言ったら、たとえば何が考えられますか?」
 蛇ならぬ蛇遣いが意味不明の呪文を唱えた。
 は? と訊き返す前に、あ、という風に脇で口を開けた池尾が、中島を見てから糸井に目を寄越した。その池尾を見返した糸井は、もう一度だけ脳内で中島の言葉を反芻した。──未知なる敵? 何の話だ?
 糸井はその問いかけについてしばらく考えたが、しまいにはやっぱり「は?」と訊き返した。腐っても客だから、一応は失礼のない程度の「は?」を心がけながら。
「えっと、それは映画か何かの話ですか」
「池尾さんも同じこと言いましたよ、さすがお友だちですね」
 そう言って笑った中島深幸は、最初のうちに見せていた人畜無害なクリアソフトケースを被ってるようだった。ハードケースじゃない。だからフィットしてはいる。でもそれが生の表情じゃないことはわかる不自然さ。
 中島はゆっくり煙を吐きだすと、ハートランドのビアグラスに口をつけて糸井を見た。
「いえ、ちょっとですね、最近ずっと考えてまして。その……未知なる敵の存在というものに期待してる人間を満足させるとしたら、どういう手段があり得るかについてなんですが」
 呪文はますます理解不能になるばかりだった。糸井は中島のメガネを眺め、レンズの向こうの目の色にフザけてる気配が見えないのを確認してから口を開いた。
 もう一度お願いします。そう言おうとした声はしかし、友人によって一瞬早く遮られた。
「え、そんな具体的なお話だったんですか?」
 どこがどう具体的なのか、糸井には皆目わからなかったが。
「つまり必要悪を求めてるってことですか、その誰かさんは」
 皆目わからないから、糸井は煙草を箱から抜きながら無難なコメントを挟んだが、よりによって中島と必要悪について語り合うっていうのも、何だかおかしな話だと思った。が、中島の方は違和感をおぼえるでもないらしく、あぁ必要悪……と興味深げに呟いてこっちを見た。
「なるほど、いい表現ですね」
「そうですか?」
 ワケがわからん。
 火を点けながら無気力な相槌を打った糸井に、中島がクリアソフトケースの笑みを向けてくる。
「その必要悪を演じてくれる人間がいると助かるんですが、お願いできないでしょうか」
 まるで生ビールのおかわりを頼むかのような気軽さで言った中島のツラを、糸井はしばし無言で眺めた。
 コイツはいったい何を言ってんだ?
 糸井が黙ってる間に、中島の目は隣の営業マンへと流れていった。
「ねぇ、池尾さん」
「は、え、え? 俺? ……っすか?」
 池尾が吸い込んだばかりの煙に噎せた。
「さっきの池尾さんのご意見、結構いい案だと思うんですよね」
「え? 俺の? どの意見ですか?」
「ストーカー案です。池尾さんのカテゴライズでいうところの、姿を現さない系の」
「え、あのアレ? あの、それをどう、えっと、その、具体的にそれをどう活用するんですか?」
 ちょっと待て、ストーカーだぁ? 何の話をしてんだコイツらは?
 何かくだらない遊びにでも付き合わされてるような気になってきて、糸井は投げやりな仕種で煙を吐き出した。カウンタの向こう側では、なぜかストーカー計画が妙な盛り上がりを見せつつある。
 それにしても何なんだ池尾のヤツは?
 余計な口出しで中島にこっちの素性を悟らせておいて、自分は中島とワケのわからないネタで盛り上がってやがるとは。
 ──付き合ってらんねぇ。
 呆れ返った糸井が背後の棚から取り上げたハイランドパーク18年をグラスに注ぎはじめた時、池尾が意気揚々と宣言した。
「わかりました。じゃあそれは、この糸井くんに引き受けてもらうことにします」
 スモーク&ハニーの芳醇な琥珀色の液体を危うくシンクにブチまけそうになった糸井は、思わず血相を変えて声を荒げた。
「はぁ!? 何をだよ!」
「や、だから、計画の中枢を糸井に担ってもらおうかなってこと」
「何の話だか知らねぇけど俺を巻き込むな、俺は、一切、無関係、だっ」
「だって俺より糸井の方が時間が自由になるじゃん?」
「だから俺と比べるな!」
「友だちだろ? 俺を助けると思って。なぁ糸井ぃ」
「──」
 池尾の隣に目を遣ると、中島は小さく肩を竦めてみせた。
 そういうことか。途端に糸井は醒めた気分で納得し、カウンタに並ぶ2人の顔を見て胸の裡で軽く唾を吐きかけた。池尾はもとより中島も、もはや客として扱う必要性は感じなくなっていた。だから遠慮なくそのツラを見据えて吐き捨てるように口を開いた。
「決まったんじゃねぇのかよ、池尾んとこが受注することは」
「決定してますよ、今回の案件は」
「今後の付き合いを鼻先にブラ下げてるってわけか、その何だか知らないけどくだらねぇ遊びのために」
「まさか。池尾さんが自ら申し出てくださったんですよ」
「申し出たんなら自分でやるのが筋だろうが、池尾?」
「友だちじゃん、協力してくれてもよくね?」
「お前と友だちだったことはねぇ」
 しかし、いくら相手が顧客だからってそんなバカげた要求を大人しく呑む必要があるか?
 逆に中島の過去を会社にバラすって脅しをかけて契約をもぎ取ったっていいぐらいじゃないのか?
 そう考えてから、会社が中島の素性を把握してないとは限らないことに気づいた。ひょっとしたら承知の上で雇ってるという可能性もゼロとは言えない。
 考えてもみろ。あの時、母ちゃんたちが陰口叩いてたネタは何だ? ──中島の母親がどっかのお偉いさんの愛人だってネタだろうが?
 その『パパ』と中島の勤務先に関係があるかどうかなんて、そんなことは知る由もない。そもそもパパがどういう世界のお偉いさんなのかも知らない。が、もし何らかの繋がりがあって、かつ会社が中島の過去を了解してるとしたら、そこを揺さぶることは池尾にとって地雷だ。
 さらに重要な懸念もある。小6の時に同級生を椅子で殴り倒したかどうかという池尾の問いに、中島深幸は返事をしていない。糸井的には100%間違いなく当人だと感じてはいるが、客観的な見方をすれば断定はできない。
 糸井は灰皿の縁で燃え尽きていた吸い殻を底に転がし、ハイランドパークに口をつけた。
「やめとけよ。仕事のために犯罪の片棒担ぐ気かよ?」
「犯罪かなぁ」
「犯罪だろうが。じゃなかったらガキのイタズラだ」
「そうじゃん、イタズラじゃん? それもさぁ、悪質じゃねぇし。そういう敵がいねぇかなって思ってる相手なんだから」
「あのな、どっちにしろ俺には関係ねぇ話だけど、お前はその相手を知ってんのかよ?」
 念のため訊くと、池尾のツラにぽっかり穴が空いたような空白が訪れた。
「……おい?」
 糸井が問いかけを投げたのは友人ではなく、隣の中島深幸だ。
「ターゲットが誰かも話してねぇのかよ、ストーキングの手伝いなんかやらせようとしてるクセに?」
 池尾のバカさ加減はフォローする気にもなれない。でも中島を気に入らないことには変わりがないから眇めた目をくれてやったが、ヒョロ長いメガネくんは受け流して「あぁ」と口を開くと、事も無げに続けた。
「相手は、千葉海志くんです」
 
 
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