月曜、最初に西浦を目にした時、久慈は思わず左手の薬指を確認していた。
 シンプルなプラチナのリングは、いつもどおりそこに収まっていた。話し合いがうまくいったのかどうかは知らないが、さっそく外して出勤するような事態にはなってないってことらしい。
「よォ」
 近づいてきた西浦の挨拶も、いつもどおりだった。
 席に着いたまま応えた久慈は指輪からネクタイに目を移し、見たことねぇ柄だと思いながら最後に顔を見上げた。そのツラもいつもどおりだった。
 金曜の夜、フロから出た時には西浦はもう姿を消していた。ロウテーブルの周りはちゃんと片づいていて、代わりにシンクの中にズラリと空き缶が並んでいた。
「シャツとパンツ、乾いてっけど持ってくんの忘れた。急ぐか?」
「いや、いい。そのうち取りに行くかもしんねぇし。お前に借りたシャツは持ってきたから、あとで渡すよ」
「あっそう。じゃあ、お前のはとりあえず置いとくよ」
「パンツは返さなくていいんだろ」
「いらねぇって」
 久慈は答え、ちょっと声を抑えて訊いた。
「んで、話したのか? 嫁さんと」
「あぁ」
「うまくいったか」
「何が」
「何がってだから、話し合いが」
 仲直りのセックスが、とはさすがに言わなかった。
 西浦はそれには答えず、どこか上の空なツラで上着の内ポケットを探りかけてやめた。
「煙草ならあるぞ」
「あぁ? うん、いや……ていうか久慈お前、昼メシ食えるか今日」
「は? お前と?」
「そう」
「どこで?」
「どこでもいいよ。このへんで、どっか」
 久慈は腕時計に目を落とし、脳内にスケジュールを呼び出した。
「えっと、これからちょっと出かけるけど、たぶん昼前にはいっぺん戻るから……お前はいんのか? ここに」
「俺は夕方1件だけだから、今日の外出予定は。あとはずっと社内にいる」
 じゃあ戻ったら声かけてくれ、西浦は言って立ち去った。ケツは大丈夫かなんて訊きもしないし、気にする素振りもない。まぁ幸い昨日のうちに違和感は消えたし、西浦だって土日に嫁さんとやり合ったんなら金曜の夜の些末な出来事なんか意識の外だろう。
 久慈は寛大に友を赦すと、胸ポケットに煙草とライターを詰めて立ち上がった。
 
 
 帰社したのは結局、正午を少し回ってからだった。久慈は喫煙所にいた西浦を捕まえ、連れ立って近所のホテルのランチに出かけた。
 ホテルと言ってもビジネスに毛が生えた程度のグレードで、地下の古くて暗いレストランでは庶民的なランチバイキングを提供している。2人はトレイを手に、客のまばらな喫煙エリアのボックスシートに収まった。壁にまでヤニ臭さが染みついたような席だが、このご時世、煙草を吸いながらメシを食わせてくれる店は貴重だ。
「で、どうなったんだ」
 久慈がそう訊いたのは、当たり障りのない会話でメシを終え、煙草に火を点けたあとだ。
「何が」
「何がじゃねぇだろ、嫁さんの話だよ。そのためにメシ誘ったんだろうが? わざわざ」
「あぁ……まぁな。とりあえず、いますぐどうこうって話にはなんなかったけど。やりてぇことやりながら、両立できんのかどうか様子見るっつーか、そんな感じ?」
「よかったじゃねぇか」
「そう思うか」
「だって別れたくねぇんだろ? とりあえず繋いだんだから、あとはお前がどんだけ理解してやれるかってだけじゃねぇの?」
「そうかもしんねぇけど」
 咥え煙草で頬杖をついていた西浦が、煙の向こうから目を寄越して呟いた。
「肝心のとこがわかんねぇんだよ」
「肝心って」
「両立できなかったら別れるってのは、要するにどっちでもいいってことじゃねぇか?」
「何がだよ」
「だから。俺といてもいなくても、どっちでもいいってことじゃねぇ? てかソレ、どっちかっつーと俺の方が下だと思わねぇか? 優先順位的に」
「やっぱ優先してほしいわけ、嫁さんには」
 久慈は笑ったが西浦は浮かないツラのままだった。指輪に目を落として、たぶん無意識に指先で弄んでいる。
「仕事と天秤にかけられて喜ぶヤツがいるかよ」
「スネるなよ」
 金曜にも言った気がするセリフを、久慈はまた吐いた。
「スネてねぇ。普通だろ、そう思うのは」
「こんなに愛されてんのにもったいねぇよなぁ、お前の嫁さんは」
 指輪をイジッていた指がとまった。無言で煙草を消した西浦は、どことなく鬱陶しげな表情で内ポケットに手を入れながら言った。
「もういいだろ、その話は」
「え、もう終わりか? なんかネガティブな話ばっかじゃん、うまくいきかけてんじゃねぇのかよ」
「手を出せよ、久慈」
「は?」
 久慈は向かいに座る友人のツラを見た。ポケットから抜いた手の中に何か持ってる。手を出せって? 何か寄越すつもりなのか。言われるままに差し出した手のひらに、小さなものが載った。
 指輪だった。ワケがわからず西浦に向けた目を、久慈はもう一度手のひらに落とした。シンプルな銀色の指輪。西浦が嵌めてるのとは違うデザイン。摘んで目の高さに持ち上げると、小粒のダイヤのような石がひとつだけ埋め込まれていた。
「何だよこれ?」
「やる」
「はぁ?」
 ますますワケがわからず、久慈は口を開けて西浦を眺めた。
「別のを買ってやるって言っただろ、こないだ」
「言ったっけ? てか冗談だろ、それって? こんなの俺がもらったってしょうがねぇじゃん……つーか、どこで拾ったんだよ」
「失礼なこと言うな、買ったんじゃねぇか」
「じゃあ、なんで剥き出しなんだよ」
「箱なんかあったら入れっぱなしだろうが、お前」
「──」
 もはや何をどうツッコめばいいのか、わからなくなった。いやツッコミどころはいろいろある。が、西浦が何をしたいのかが全然掴めないから、どうやって切り込むべきなのかわからない。
 久慈の戸惑いをよそに新たな煙草を咥えた西浦は、火を点けてから視線を投げて寄越した。
「偽物じゃねぇからな。地金はホワイトゴールドだけど石はダイヤだ」
「いやお前、そういうことじゃなくてだな」
「俺のはダイヤは入ってねぇけど」
「え? は? 俺のはって」
「ソイツの片割れ。俺が持ってる」
「ちょっと待て。片割れって、マジでそういう種類の指輪なのかよコレ?」
「別に結婚指輪みてぇに改まったモンじゃねぇよ。カテゴリ的には単なるペアリングだろ」
「単なるってお前、そんなもん俺とペアにしてどうすんだよ」
「どうもしねぇ。持ってて欲しいだけだ」
「ちょ、ちょ……なぁ落ち着け? 何がしてぇのか全然わかんねーんだけど」
「心配しなくても落ち着いてる」
 指輪をテーブルに置いた久慈の左手を、西浦が掴んだ。もう一方の手が指輪を摘み上げるのを見て何をするつもりかはピンときたが、こんな場所で派手に抵抗して人目を集めたくはない。それでも一応拒むように腕を引き、久慈は低く「やめろ」と吐き出した。
 西浦は聞き入れる気配もなく、咥えっぱなしの煙草の煙に目を眇めながら久慈の薬指に銀色のリングを押し込んできた。久慈は思わず辺りを見回した。こんな光景を目撃されたらどう思われるかわかったモンじゃない。それが社内の人間だったりしたら最悪だ。でも幸い知った顔はなかったし、こちらを気にしてる人間もいなかった。
「あぁ、ちょうどいいな」
 第2関節で立ち往生しかけた指輪は、最後には付け根にピタリと収まった。
「さすが専門家」
「は? 誰のことだ」
「店員だよ。俺のコレがちょっと緩いぐらいの指でサイズ選んでくれっつったら、これ出してきた」
「あの、西浦? マジで買ったのかよ?」
「昨日な」
 デザインは二の次で在庫があるヤツをと言ったら、それでもいくつか出てきたと西浦は言った。どれもサイズはそれなりに用意してあるものの、こんな太い指の女はそうそういないから売れ残ってる、とかいう話だったらしい。もちろん実際に店員が「太い指の女」なんて抜かしたとは思わない。
 とにかく、西浦はその中から最もシンプルなひと組を買ってきた。
「お前はこの大事な時に嫁さん放ったらかして、そんなことやってたのか」
 呆れ返る久慈に西浦が眉を寄せた。どっちが批難してるんだかわからなくなるようなツラだった。
「別に土日の間中、一緒にいなきゃいけないわけじゃねぇ」
「そりゃそうだろうけど、そういう問題じゃねぇだろ? コレは」
 言って久慈は指輪を引き抜くと、もう一度西浦の前に置いた。西浦は手を出そうとはせず、煙を吐きながら指輪に落とした目を上げて久慈を見た。
「どういう問題なんだよ」
「あのな、お前大丈夫か? どうもこうもねぇじゃん、いろいろあんだろうが。てか一番わかんねぇのはなぁ、なんで俺にオンナ用のを寄越すんだってトコなんだけど」
「一番どうでもいいことじゃねぇか、そんなの」
「は? どうでもよくねぇよ」
「お前それ右の指、入る?」
「はぁ?」
「右手の薬指に入んのかって。あ、俺コーヒー取ってくるけど、お前もいるか」
「え? あぁ? うん……?」
 西浦が席を立ったあと、残った久慈は腑に落ちない気分でテーブルの上の指輪を眺めた。何なんだ、いまの会話は? ていうか右の指に入るかって、どういうことだ?
 いやそれより、昨日買ったってのはホントなんだろうか。思ったそばから否定した。まさか、冗談に決まってる。買ったはいいけどサイズが合わなくて放置してあったとか、そういうヤツだろ? そんな風に考えれば安心できた。
 安心ついでに、右がどうのって言葉をもう一度思い出した久慈は、何となく指輪を摘み上げた。そして何となく右手の薬指に入れてみると、左より若干キツかったものの、ちゃんと嵌った。
 が、そのあとが困った。
「久慈、何やってんだ?」
 西浦が戻ってきたのは、久慈が指輪を抜こうと四苦八苦している最中だった。
「お前が右に入んのかとかワケわかんねぇこと言うから」
「うん?」
「嵌めてみたら抜けなくなった」
「へぇ」
 西浦は笑い、カップを2つ載せたプラスティックのトレイをテーブルに置いた。
「見た感じはそんなキツそうでもねぇんだけどな、関節が太ェのか? そっちの方が」
 諦めて投げ出した久慈の手を眺め、西浦は他人事のように言ってコーヒーを啜る。
「何とかしろよ」
「いいじゃねぇか、似合ってんだし。いざとなったら石鹸つけりゃ抜けんだろ」
「あぁそっか、便所行ってくる」
「いま行くのかよ、会社戻ってからでよくねぇ?」
「それまでに誰かに見られたらヤだし、女子とか特に面倒クセェし」
「放っときゃいいだろうが、そんなの」
 どこか不満げな西浦を置いて久慈はレストランを出た。
 店の外、通路の奥にあるトイレに入るとまず、ついでに用を足そうと便器の前に立った。が、先に指輪を外した方がいいかと思い直して洗面台まで戻り、ハンドソープを手に取って泡立てると指輪は呆気なく外れた。泡を洗い流して鏡の前に置く。
 その銀色と小さなダイヤの光を、久慈はちょっと眺めた。
 ──何がしてぇのかわかんねぇ。
 目を逸らして壁際のハンドドライヤーに手を突っ込んだ時、鏡の中に西浦が現れた。
「久慈、まだか。もうそろそろ戻んねぇと」
「あぁ、うん……って、あ、でも勘定は」
「もう払ってきた」
「そうか、いくらだっけ。あ、つーかコーヒーまだ飲んでねぇのに」
「いいじゃねぇか、あとで缶コーヒー奢ってやるよ」
「は? いや別にいいんだけど、千円に消費税?」
 内ポケットから財布を出しかける久慈を西浦が遮った。
「いらねぇ。俺が誘ったんだから」
「え? でも」
 西浦を見るのと、後頭部に手のひらを感じるのとが同時だった。
「!」
 反射的に逃げかけた頭を引き戻されて唇が重なる。もう一方の手が頬を覆い、親指で顎を押されて開いた隙間から舌が割り込んできた。
「……!」
 ぬめる粘膜の感触が脳裏に喚び起こす、金曜の夜の記憶。あの時は酒臭かった西浦の唇は、いまは煙草とコーヒーの匂いがする。抵抗すると壁に押しつけられて余計に深く奪われた。
「ん……ぁ」
 唾液の濡れた音が響く。角度を変えて再び交わる熱い息も、項を掴み直す性急な手つきも、どれもが妙に余裕のなさを感じさせて久慈の焦りを煽った。
 ていうか、メシ代いらねぇ?
 どうでもいいことのようでいて、実は魚の小骨のように引っかかったセリフ。
 自分が誘ったから、とかいう曖昧な理由だけでメシを奢られたことなんか、これまで一度だってない。もちろん逆も然り。当然だ、同性の同期の同僚相手に大した理由もなく奢り合ってたら気持ち悪い。なのにメシ代をいらねぇと言った上、缶コーヒーまで奢ると西浦は言った。
 千円もする昼メシと、ついでに缶コーヒー? いや金額が問題なんじゃない。それを言うなら、もっと問題なモノが鏡の前に転がってる。本当に久慈のために買ったのかどうかは知らないけど、明らかにメシ代や缶コーヒーとは一線を画すモノ──
「久慈」
 執拗に唇を貪ってようやく顔を離した西浦が、問題のソイツを鏡の前から拾い上げた。
「なぁ、何かを誓えとは言わねぇよ」
「は……?」
「お前が次のオンナを作る気になるまででいい。その間だけでも嵌めててくんねぇか」
 呆然と見返す久慈の指にもう一度、ゆっくりと指輪が押し込まれる。簡単には抜けない右手の薬指に。久慈はただ絶句して、その光景を眺めていた。
 ──会社の近所の安っぽいホテルの公衆トイレで。
 同じく安っぽい蛍光灯の白けた光を、小さな小さなダイヤがキラリと反射した。
 
 
【END】

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