廊下の向こうからやってくる姿を見て、久慈は無意識に身構えた。
 無意識ってことは、つまり意識してのことじゃない。別に警戒してなんかないし、そんな必要はない。最近ちょっとばかり問題が発生してはいるものの、相手は単なる同僚で付き合いの長い友人ってだけだ。
 その証拠に、近づいてきた西浦は何ということもないツラで声をかけて寄越した。
「お疲れ」
「よぅ」
「久慈も今日出んだろ? 金子さんの送別会」
「あぁ、まぁな」
「俺はちょっと遅れるかもしんねぇ。これから行かなきゃなんねぇトコができて」
「あっそう、ま、どうせ時間どおりに全員集まりゃしねぇだろ」
「久慈は? 何やってんの、いま。煙草吸い行かねぇ?」
「お前、出かけんじゃねぇのかよ」
「一服してから出る」
 西浦は言いながら上着の内ポケットに手を突っ込んだ。取り出したパッケージから早くも1本抜いている手を、久慈は見るともなく眺めた。左手の薬指。そこには今日も変わらず、プラチナのシンプルなリングが収まっている。
 ふとそのまま目を上げたら西浦の視線とぶつかった。何を見ていたのか気づかれた、と思うと同時に西浦が口を開きかけた時、しかし一瞬早く第三者の声が割り込んできた。
「あっ、いたいた。久慈!」
 見ると、彼らと同期の小林だった。小走りに駆け寄ってくると、縋るように久慈の肩に手をかけて息をついた。
「よかった、ちょっとあの、悪ィけど手伝ってくんないかなぁ。手が空いてからでいいんだけど」
「何、どうしたんだよ」
「や、例のワガママちゃんのとこ? 打ち合わせが急に明日に変更ンなって、資料作んのが間に合わねぇよって感じでさぁ、もう。久慈、前に似たような案件抱えてたじゃん?」
「あぁ……うん、あったっけなぁ」
「そん時の資料を見せてもらいたいんだけどさ、参考までに。てかちょっと見てみてほしいんだけど、状況。今日ほら、送別会あっからアレなんだけど、もしいま時間大丈夫だったら……」
 言いながら何気なく久慈から逸れた小林の目が、なぜか泳ぐように戻ってきた。
「あ、えっと、一服してきてからでいいから」
「え? 別にすぐでもいいけど?」
「いや、でも」
 と、再び泳いだ小林の視線を追って振り向くと、火の点いてない煙草を咥えた西浦が小さく肩を竦めてみせた。
「じゃ、あとでな久慈」
「おぅ」
 背を向けて歩いて行く姿をちょっと見送り、久慈は小林の方に向き直った。同じく西浦を見ていたらしい小林が、どことなく訝しげな目を久慈に寄越した。
「何だよ?」
「あ、いや、なんか」
「何」
「や、何でもねぇけど……お前ら、別にケンカとかしてないよな?」
「俺と誰が? 西浦?」
「そう」
「してねぇよ」
「だよな」
「何だよ」
 いや何でもねぇんだけど、と歩き出しながら小林は言い、久慈も並んだ。
 ケンカしてるのかどうかなんて訊かれたのは、つまり、第三者にはどんな風に見えてるってことなんだろうか。速やかに仕事の話に戻った小林の声を上の空で聞きながら久慈は思った。
 2ヶ月前、久慈と西浦の間に、ちょっとした過ちが起こった。
 その日、西浦は嫁さんから離婚を切り出されてヤケになってて、そのせいでたぶん人恋しくなってた。
 で、酔った勢いってヤツだ。
 付き合いも7年を超えた同僚は、何を思ったか同性の久慈に自分の結婚指輪を嵌めさせると、ひと晩ならぬ一発抜く間だけの愛を迫り、女にするような行為に及んだあげくケツにナニを入れて中出しした。本人いわく「突っ込んだとは言わねぇ」程度に入ってたソイツは、でも達したあと萎えきる前に根元まで出し入れされたんだから同じことだと思う。
 でも久慈は忘れることにした。それが嫁さんに捨てられかけてヘコんでた可哀想な友人に対する、精一杯の譲歩だった。
 コトが起こった夜のうちに西浦が帰って行くと、翌土曜はDVDを借りてきてゴロゴロしながら映画鑑賞で一日を潰し、日曜にはもう金曜のことなんか忘れた気になって掃除洗濯とDVDの返却を済ませ、コンビニメシを食い、いつもと同じ退屈で平穏な週末を過ごした。
 なのにだ。
 週が明けて出勤すると、なんと西浦はまだ金曜日の延長線上にいた。そして、記憶も定かじゃない程度の会話の中で口走った戯れ言を現実に持ち込んだ。
 それは何か。指輪だ。
 久慈の部屋で「お前に買ってやる」的なセリフを西浦が口にしたのは確かだった。でもそんなの本気にするヤツなんかいないだろう。西浦は所帯持ちで、久慈は男で、そんなものをもらう理由なんかこれっぽっちもない。
 なのにどういうつもりか、西浦は週末の間に新しい指輪を買ってきたのだ。久慈に寄越すために、わざわざ。
 そして言った。久慈に次の彼女ができるまで、ソイツを嵌めていろと。
 嵌めるわけがなかった。そんなモノ着けてたら次のカノジョなんかできない。
 だから聞かなかったことにして職場の机の抽斗にしまい込んでたら、ある夜、突然部屋を訪ねてきた西浦が「なんで嵌めねぇんだよ」とその指輪を突きつけた。
 
 
 テーブルの上に置かれた銀色の指輪を、久慈は数秒見つめた。
「は……? え? どっから持ってきたんだ?」
「お前の抽斗ン中だよ、会社の」
 正面で胡座をかいた西浦は、缶ビールを傾けながら事も無げに答えて寄越した。
 少し残業してから帰宅して、途中で買ってきた餃子を肴にビールを飲みつつテレビを眺めてたら、インターホンが鳴った。出てみると西浦だった。
 先日のことがある以上、もっと警戒して然るべきだったのかもしれない。が、長年の付き合いのある同僚がフラリとやってきて、何食わぬツラで「預けといた服を取りに来た」なんて言えば、つい油断するってモンだ。
 そもそもシャツとパンツを預かりっぱなしだったのは事実だし、会社に持って行くのを忘れてたことも事実だし、それに翌日も仕事なんだから用事が済めば帰るだろうと思った。ついでに底冷えのする夜だったから、入っていいかと訊かれても拒否はしなかった。
 すると結局、自然に冷蔵庫から缶ビールが出てきて友人の上着類はハンガーに掛かり、気づいたらテーブルを挟んで飲んでいた。西浦がシャツの胸ポケットから指輪を取り出したのは、それからほどなくだ。
「ちょ、抽斗って……何ヒトの抽斗漁ってんだよ?」
「別に漁ってねぇよ。お前がコレを抽斗に入れてんのは知ってたし、開けたらすぐそこにあったし」
「あのな、探し回んなくたって漁ったことには変わんねぇだろ、勝手に開けて中のモン持ち出してんだから」
「男が細かいコト言うなよ」
「男カンケーねぇだろ、てかストーカーかよ、お前」
「ストーキングしてねぇっつーの」
「ストーキングだろ、ほとんど」
 呆れた声で言って煙草を咥えながら、久慈は部屋に入れたことを後悔しはじめていた。
 友人として、同僚として、これまでと変わらない付き合いを続けることはできる。西浦さえ普通に嫁さんとやり直してくれれば、酔った勢いの過ちぐらい忘れてやれる自信があった。なのに相手は、せっかくの思いやりをブチ壊す。
「ホントは消しゴムかなんか探してたんだろ? なくして」
「いや?」
「開けたらたまたま指輪があったって言えよ」
 しかし期待どおりの答えは返らなかった。
「嵌めろよ」
「──」
「久慈、指輪」
「全然意味がわかんねぇ、なんで俺がお前にもらった指輪を嵌めなきゃなんねぇんだよ? てか、ちゃんと持ち直してんだろうが、嫁さんと。ヨソで恋愛ごっこしたがる必要なんかねぇだろ」
「恋愛ごっこなんかしたがってねぇよ別に。離婚してねぇ以上、浮気するつもりはねぇし」
「嫁さん以外の人間に指輪をやって嵌めろとか迫るのは浮気じゃねぇのかよ」
「久慈お前、俺と不倫する気でもあんのか」
「は? 気持ち悪いコト言うな、てか訊いてんのは俺だ。お前のやってることは……」
「浮気じゃねぇだろ」
 何気ない口調のわりには素早く、西浦の手が動いた。突然テーブル越しに手首を掴まれて身体が揺れ、久慈は内心舌打ちした。警戒してるとか動揺してるとか勘違いされたくない。
 目を閉じて、ゆっくり一服して瞼を上げる。灰皿に灰を落としながらテーブルの上に散らばる柿の種を眺め、そういえばあの時も柿ピーがあったなとどうでもいいことを思い出した。柿の種とピーナツを分けてたら、西浦が夫婦仲の危機について切り出したんだった。
 柿ピーを選り分けたりするんじゃなかった。久慈は思った。
「あのな、さっさと手ェ離さねぇとトモダチやめるぞ」
「離してほしいようには見えねぇけど」
「必死で振り払えってのかよ? そんなの深刻でなんかヤダ。お前が本気でやってるとも思ってねぇし」
「なんで本気じゃねぇって思うんだよ?」
 手首を掴む手のひらに、じわりと力が籠もった気がした。
 久慈は気づかなかったフリをして、さりげなく自分の方に腕を引いた。すると案外、呆気なく手首が解放された。
「なんでって……ストレス解消でフザけてんだろうが」
「何のストレスだっつーんだよ、嫁とはうまくいってるように見えるんだろ? 久慈から見りゃ」
「そうやって絡むなっつの、俺に」
「トモダチじゃねぇモンになりゃいいのかよ」
「ワケわかんねぇこと言うな、てか明日も仕事だってわかってんのか? 週の半ばに人んちで酔っぱらうなよ」
「まだ酔ってねぇ」
「酔ってねぇんなら理解できるように説明してくれ、頼むから」
「何を」
「だから、コレが何なのかを」
 煙草を咥えたまま顎で指輪を示すと、西浦は目だけを動かしてテーブルの上を見て、次に久慈の目をまっすぐ見返してから煙草を1本抜いた。フィルタを咥えてボソリと呟く。
「意味はねぇよ」
 久慈の百円ライターを引き寄せて火を点け、煙を吐いて「理由なんかない」とも言った。
「ただ何となくそうしたいってだけで、お前と浮気しようとか思ってないし」
「それを聞いてちょっとは安心したけどな。でもただ何となく指輪を嵌めさせてぇとか言われても、相変わらず理解はできねぇ」
「自分でもわかんねぇんだから久慈にわかんなくて当たり前だろ?」
「開き直んなよ」
「とにかく嵌めろって、いま。俺が帰るまでの間でいいから」
「嵌めたら何かくれんのかよ」
「キスしてやる」
 久慈は思わず友人を見た。
 フザけてるのか本気なのか判断しかねるツラだった。つまり、いまのセリフは錯覚だったのかと思わせるような、まったく普段どおりの表情だった。
「は? 何?」
「だから、その指輪を嵌めたらキスしてやるって言ったんだ」
「俺に何のメリットもねぇんだけど」
「したいだろ? 俺と」
 西浦はまっすぐ目を寄越したまま、煙草を吸いながら相変わらず当然のように言った。
 
 
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