有楽町が自宅を出て階段を降りる途中、スマホが一発震えた。
 ポケットから引っこ抜いて覗いた画面には、こんなプレビューが浮かんでいた。
『まだ家います!?』
 差出人は職場の後輩、副都心ふくとしん桧皮ひわだ
 副都心ってのも、あくまで地下鉄の路線名じゃない。身近な社内メンバーのうち一番若い25歳で、所属は隣の営業二課ではあるものの、ある意味もっとも有楽町に近い存在だった。
 というのも何しろ、同じアパートの下の階に住んでる。
 メッセージには返信せず、階段を降りきって1階の部屋のドアホンを鳴らすと、すぐに玄関ドアが開いて副都心の顔が覗いた。
「あぁ有楽町さん! よかったぁ、シャツ貸してもらえません?」
「はぁ? またねぇの?」
「やー、ちょっと1週間ぐらい家空けてて久々に帰ったんで、洗濯してなくって」
「そういや最近見かけなかったな。今度はどこの女だよ?」
「渋谷」
「あっそう」
 コイツはすぐにどっかの女に惚れては、相手が独り暮らしであれば部屋に転がり込んで、しばらくアパートに帰って来なくなる。1週間ならまだ短いほうだ。
 しょうがねぇなぁ、と有楽町は2階に引き返して部屋からシャツを1枚持ち出し、また降りた。
「あざーっす有楽町さん、助かりまーす!」
 受け取った副都心がシャツに目を落として、あれ? と布地を広げた。
「これって、丸ノ内さんが誕生日にくれたヤツじゃないですか?」
「あ、おー、だな。よくわかったな」
「だって、このグレイのストライプに見覚えあるし、大体こんな仕立ての良さげなシャツなんて有楽町さん自分で買いませんよね」
「なんか引っかかる言い方だけど、まぁとにかくいいじゃねぇか別に。それとも丸ノ内さんがくれたシャツは着れねぇってのかよ?」
「いや、じゃなくて、俺借りて大丈夫ですか?」
「大丈夫って何がだよ、早くしねぇと遅刻すんぞ」
「だってほら、服あげんのって脱がせたい意思表示ですよね」
「はぁ?」
「俺、これ着てたら丸ノ内さんに怒られません? てか俺、丸ノ内さんに脱がされません?」
「何言ってんだ? フザけてる暇があったら着替えろよ。じゃあな、先行くぜ」
 有楽町は歩き出しかけ、ふと足を止めて振り向いた。
「あぁそうだ副都心、今日の飲みは出れんだよな?」
「あ、行きます行きます、大丈夫でーっす」
 
 
 で、その夜。
 有楽町が大手町のリーマン向け居酒屋に入ったとき、先着組が2人いた。
 ひとりは銀座、もうひとりは経営企画室に属する千代田ちよだ翡翠ひすいだ。言うまでもなく千代田ってのも、地下鉄の路線名でもなければ地名でもない。
「お疲れさまっすー、てか銀座さんも来るなんて珍しいですねぇ」
「俺は予定入ってたのに、千代田がゴリ押ししてくるもんだから」
 言って肩を竦める銀座の向かい側で、千代田がニコニコと頷いた。
「だって今日はせっかくみんな集まるんだし」
 有楽町の一期上である33歳の千代田は、基本的には外観内面ともに優等生タイプ。あくまで基本的には。
 ところが下町出身の遺伝子の成せる業か、スイッチが入るや否や喧嘩っ早くて3度のメシより祭りが好きな江戸っ子に変身するというジキルとハイド。
 そして実は同じく下町出身の銀座が、やはりインテリ風情に似合わず祭りが好きで、つまり彼らは祭り繋がりの仲でもあった。
「2人とも祭りとかいうタイプじゃねぇのになぁ。銀座さんと千代田さんが神輿担いでるとこ見てみたいっすよう」
「なんだ、早く言えばいいのに」
「今度来いよ、法被貸してやるから」
「いや俺、見たいだけなんで」
 そんな会話の最中、東西&南北コンビが到着した。
 続いて店の外で一緒になったという半蔵門と日比谷もやってきて、ほどなく登場した丸ノ内が無言で銀座を一瞥したあと隣に座る有楽町をチラ見し、もうオーダーしちまおうってことになって店員を呼んだ直後に副都心が現れて、ようやく9人全員が揃った。
「遅くなってすみませーん」
「副都心くんが遅れるのはいつものことだもんねぇ」
 両手で頬杖をついて屈託なく笑う南北の横で、
「こらこら、そういうことをはっきり言わない」
 同じくらい屈託なく東西も笑ったところに店員が顔を出し、とりあえず一杯目のドリンクだけオーダー。
「あ、有楽町さん、朝はありがとうございました!」
 店員が去ると、半蔵門と日比谷を挟んだ向こうから副都心が声を投げて寄越した。
「おぅ、遅刻しなかったか?」
「おかげさまで」
 そのやり取りを聞いて隣の半蔵門が尋ねた。
「何かあったんですか?」
「うん、まぁちょっとな」
 と、有楽町が朝の顛末をかいつまんで話し終える頃には、なぁんだまたか……といった空気が場を満たしつつあった。
 が。
 副都心のシャツをひと舐めした丸ノ内の視線が自分に巡ってくる気配を有楽町が感じたとき、あれ? と日比谷が副都心を覗き込んだ。
「このシャツってさぁ、丸ノ内が有楽町にあげたヤツじゃなかったっけ」
 その言葉に全員がもう一度副都心を見た。正確には、副都心が着てるシャツを。
 有楽町が素早く言った。
「あぁまぁそうなんっすけどー、あ、丸ノ内さんすんません。持って降りてから気づいたんですよ、丸ノ内さんにもらったヤツだって」
「別にいいんじゃねぇのか?」
 有楽町の言い訳を丸ノ内が一蹴し、今度は副都心が慌てたように口を開いた。
「あの丸ノ内さん俺、これ着てるからって脱がされたりしませんよね?」
「はぁ? 何言ってんだお前?」
 眉間に皺を刻む丸ノ内の横で、南北が目を輝かせた。
「あーやっぱり! 脱がせるためにあげたっていう噂、ホントだったんですかぁ? 丸ノ内さん」
「そんなわけあるか」
「でもただの後輩の誕生日に1万超えのシャツは普通あげませんよね」
 千代田が首を捻ると、東西が目を丸くした。
「え、そんなにするのぉ?」
「うん、実は僕、生地違いの持ってて。買うときに迷ったから覚えてるんですよね」
「やばーい有楽町くん、それはやっぱアレだよう。ね、丸ノ内さん」
「アレって何だ?」
「はぁアレって何すか?」
 東西の問いかけに丸ノ内と有楽町の声がハモり、副都心がそわそわと身動いだ。
「やばい、なんか丸ノ内さんに抱かれてる気分になってきた。有楽町さん、今からでも遅くないんでシャツ交換しませんか」
「バカ言ってんじゃねぇ、ンなこと言われたら俺だって着れねぇよ今」
「あーどうしよう丸ノ内さんに殺されるーっ!」
「本人目の前にしてよく騒ぐわねぇ」
 南北が猫みたいな目を瞬かせて呆れ、銀座が指先でメタルフレームを押し上げて沈着な声を浴びせた。
「安心しろ副都心。シャツがどうこう以前に、同じアパートに住んでる時点でいつ丸ノ内に殺されてもおかしくない」
「マジですかぁ銀座さん、下の部屋空いてるって紹介してくれたの有楽町さんなのに! 俺が悪者なんですか!」
 切羽詰まる副都心を尻目に、丸ノ内が銀座のほうへと圧力を孕んだ目を投げた。
「どういう意味だ?」
「有楽町に近づくヤツは気に入らないだろ?」
「ドリンクきませんねぇ、呼んでみますか?」
 先輩2人の目に見えない対角線を、半蔵門のソツのない声がド真ん中でチョキンと切断した。
 それを受けて千代田が呼び出しボタンを押すとともに、副都心の隣の日比谷が正面に座る丸ノ内にのんきな目を向けた。
「ていうかさぁ丸ノ内、1万超えのプレゼントなんて俺もらったことないよ?」
「だな。で?」
「有楽町にはあげるんだ?」
「比べる意味もわかんねぇし、ソイツがあまりにも身なりに構わねぇから」
「いやいや、だからってさぁ」
「お前の深谷牛と何がどう違うんだよ?」
 深谷牛って? と訊いた東西に、ついこないだ日比谷に焼き肉を奢ってもらった経緯を有楽町が説明しかけたとき、店員がジョッキ9杯を携えてやってきて諸々の一切が有耶無耶になった。
「じゃあとにかく、乾杯しましょうよ」
 南北が言って華奢な腕に不釣り合いなメガジョッキを掲げ、野郎8人も倣って各々ジョッキをぶつけ合う。
「ところで、これって何の乾杯でしょうね?」
 ふと疑問を口にした千代田の隣で、33歳男子、東西が愛らしく首を傾げてみせた。
「さぁ……わかんないけどとりあえず、全員揃ったお祝い的な?」
 
 
【END】

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