出勤時のエレベータは軽く戦争だ。
 その朝、ごった返すリーマンの波に押されて箱の奥へと追い遣られた有楽町の目の前に、見覚えのある顔が現れた。
「よぉ有楽町」
「あぁ、ざいまーす銀座さん、今日も決まってますねぇ」
 欠伸まじりに適当な挨拶を投げた相手は、総務部情報システム課の銀座ぎんざ萱草かんぞう、34歳。
 銀座ってのは地下鉄の路線名でも駅名でもなければ、地名でもない。有楽町の相棒である丸ノ内の同期で、レトロな名前にそぐわないスマートなインテリタイプ。
 ちなみに銀座と丸ノ内の2人は、ちょいちょい似通った部分を持ってるくせにソリが合わないらしく、近づきはしても決して交差しない。
 メタルフレームの眼鏡の向こうから目を寄越した銀座が、妙に至近距離に迫って有楽町を見下ろした。
 こうして近くに立つと、サイズ感まで丸ノ内と似てるのがよくわかる。
 有楽町だって世の成人男子の平均身長から言えば、別に低いほうでもない。にもかかわらずコイツらときたら、もしも抱き寄せられたなら肩にそっと頬を預けることができるくらいの高さでいやがる。もちろん、あくまで例え話。
 ともかく同じ目線の野郎に出くわす機会はあんまりなさげだから互いに余計、神経に障るってのもあるのかもしれない?
 寝ボケた頭でそんなことを考えていたら、銀座から意味不明な言葉が降ってきた。
「開いてる」
「はぁ? 何すか?」
 訊き返したが答えはなく、かわりに前置きもなく股間に指を這わされて眠気がぶっ飛んだ。
「ちょ、何やってんですかぁ銀座さん!? 俺そのケはねぇっつーか、朝からこんなトコでこんなコトされても困りま」
 すよう……という語尾に、ファスナーを引き上げる軽い音が混じる。
「開いてるって言っただろう」
「え、あ、そこっすか」
「まさか、家から開けっぱなしでここまで来たのか?」
「はぁ、まぁ途中で開けた覚えないんで、そーなりますかね? てか勝手に閉めんのやめてくださいよ」
「教えてやってるのにボケッとしてるからだ」
「いや、ちゃんと伝わるように言ってくんないと」
「回転が鈍いヤツには言葉より身体で教えたほうが早い」
「ちょ、なんか誤解を生む発言もやめてくれませんかね」
 エレベータの中の静寂がどこか普段と違う気がするのは、有楽町の気のせいだろうか?
 老いも若きも男も女も取り混ぜて、居並ぶ後頭部がどれも微動だにしないのは、聞き耳立ててるからなんじゃなかろうか?
 何事もなかったフリを装いつつ箱の中にサッと目を走らせたとき、ドアに近い位置に丸ノ内らしき姿を発見して舌打ちしたい気分になった。
 クソ──絶対あとで馬鹿にされるぜ、ファスナー全開で出勤したこと?
 もはや赤の他人みたいな風情で立つ銀座の取り澄ましたインテリ面を、有楽町は八つ当たり気味に上目遣いで睨んだ。
 それから3つめの停止階で諸悪の根源を押し退けて箱を降り──銀座の所属する総務課は上の階だ──数メートル先を行く丸ノ内の背中が見えたところで、後ろから弾んだ声が飛んできた。
「有楽町さん、おはようございまぁす」
 振り返ると、東西と南北の社内恋愛カップルが朝っぱらから仲睦まじく腕を組んで近づいてきた。
 もちろん東西も南北も地下鉄の路線名なんかじゃない。野郎のほうは有楽町より二期上の東西とうざいそら、33歳。女子のほうは四期下の南北なんぼく浅葱あさぎ、27歳。ともに業務部販売促進課所属。
 南北が入社した年、新人女子の中で一番人気だった彼女を、ヘタレた女子キャラ男子で有名だった東西が軽やかに掻っ攫った事件は未だに語り草となっている。
 そしてアラサーを迎えた今なお、百合っぽいカップル風情のまま長い春が続いてる。仲よきことは美しき哉。
「見ましたよう、銀座さんとの絡み。朝っぱらから楽しませてもらっちゃいましたぁ」
 東西の腕に絡めてないほうの手で恐ろしいほどストレートなロングヘアの毛先をいじりながら、南北が愛らしく小首を傾げた。
「お前らも乗ってたのかよ」
「うふふ、乗ってま、し、た。丸ノ内先輩もいて、もー、すっごい目で見てましたよーう。ね、空くん」
「ね、浅葱」
「え、丸ノ内さんこっち見てたか?」
「うん、もうねぇ、見てた見てたぁ」
 答えたのは南北じゃなく東西だ。字面だけで見たらどっちが喋ってるんだかわからない口ぶりとともに、33歳男子までもが愛らしく小首を傾げてみせる。
「有楽町くん、今日また丸ノ内さんにイジメられちゃうんじゃないのぉ?」
「え、なんで? 開けっぱなしで出勤したのがそんなに罪なことですか?」
 言いながら念のため股間のファスナーを確認する有楽町を見て、2人が顔を見合わせて笑った。
 南北が言った。
「やだもう有楽町さんってば、問題はそっちじゃないですよう」
「じゃあ何だよ?」
「何って、それはまぁ……あ、ほらほら、噂をすれば本人がこっち見てますよ!」
 ちょうど営業部のフロア前だった。南北の目線を追うと、奥のデスクから丸ノ内が手招きするのが見えて、同時に有楽町の肩にポンと東西の手が載った。
「グッドラック、有楽町くん。あ、そうだ。こないだ浅葱と飲みに行った飯田橋の店がすっごく良かったから、有楽町くんも今度行こうよ」
「おぉ行きます行きます、いつでも声かけてください」
 東西南北コンビと別れた有楽町は丸ノ内にチンタラ近づいた。
「ざいまーす丸ノ内さん。あのですね、今朝ちょっと便秘気味でしてね、出たがってるくせになかなか顔見せねぇっつーツンデレなクソ事件が発生したんすよ。わかります? あのジレンマ」
「いや全然」
「丸ノ内さん、毎日快便?」
「朝から腸の働きについての論議か?」
「してもいいけど、まぁいいです。そんでどうにかブッ放して慌てて家出てきたもんだから、どうも閉め忘れたっぽくてすみません」
「何をだ」
「だから、ファスナー?」
「で、俺に何を謝ってんだ?」
「え、あれ? 開けっぱなしで出勤するとか仕事に対する意識が緩みまくってる証拠だみたいな説教垂れるつもりで呼んだんじゃないんですか?」
「そんな無意味なことでいちいち呼ばねぇ。十九とおきゅう東横とうよこさんから電話あったらしいから折り返せってだけだ」
「なぁんだ」
 やっときまーす、と自席のほうへと方向転換したとき、丸ノ内が言った。
「エレベータの中じゃねぇなら問題なかったのか?」
「はぁ? 何がですか?」
 振り向くと、丸ノ内の眇めた目とぶつかった。
「銀座に言ってたよな、朝からこんなとこで触られるのは困るって」
「え、俺そんな言い方してましたっけ?」
「人目のねぇ場所ならよかったのか」
「いやそういう話じゃないっすよね? てかそりゃ、あんなトコでそんなトコ触られたら困るに決まってるし、人目がなくたって野郎に触られるのは困ります」
「銀座でもか」
「そりゃあそうですよう」
「行ってよし」
 解放されてデスクに向かいながら、有楽町は内心ヤレヤレと溜め息を吐いた。
 何もさぁ、ンなことまで張り合わなくってもよくねぇか──?
 やっぱり、朝のエレベータは軽く戦争だったみたいだ。
 
 
【END】

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