その夜は、この店にしては混んでいた。
 ひとつしかないテーブル席に4人グループがいて、全7席のカウンターは約半分の3席が埋まっている。とはいえ、その3席のうちの1席は腐れ縁の旧友だから客としては勘定しない。
 テーブルの4人は近所の会社に勤める中年サラリーマンで、旧友を除くカウンター客はこれも近所に職を持つ顔見知りとその連れだった。ただしテーブルの連中と違って、お天道様の下で勤しむ職業じゃない。
 おかまバーとラブホテルを何軒だか持ってる野郎は、連れの優男──たぶんおかまバーのホステスの変身前──そっちのけで、さっきから糸井の旧友、池尾にベッタリだった。
「結構いるよ? サラリーマンのダブルワークってコ。ね、週1からオッケーだからさぁ」
「週1オッケーなのはわかりましたから、藤原さん?」
「藤本だってば」
「俺、そういう経験ないんで無理っすよー」
 そこそこの酔っ払い加減で機嫌よく、しかし案外頑なに誘いを拒み続ける池尾は、さっき自分のボトルをカラにしたところだった。
 それを機に1席空けた隣の客から「僕のボトル飲んでいいよ?」と声をかけられ、遠慮などという言葉は母親の腹の中にでも置いてきたような旧友は男の隣に移動してメーカーズマークを有り難く頂戴し、ついでに野郎の経営するおかまバーのバイトを持ちかけられたというワケだ。
「そういう経験って客商売? それとも女の子の格好すること?」
「どっちもです」
「どっちも心配ないと思うなぁ。特にあとのほう、すごく合うと思うよ」
「あとのほうって女装?」
「そう、絶対可愛いって。すぐにナンバーワンになれるね」
 仏頂面でグラスを空にした連れの男が、クソ面白くもないってツラでマティーニをオーダーした。
 彼らの間に身体の関係があるのかどうかは知らないし知りたくもない。この店を出てから痴話喧嘩をおっ始めようが何しようが勝手だ。が、店で何かやらかされては困るし、ましてや池尾が面倒に巻き込まれるのはもっと困る。何故ならこの旧友は、自分を見舞ったトラブルの責任やら尻拭いを平気で糸井に押しつけかねないからだ。
 しかし、ソイツはノーマルな普通のサラリーマンなんで勘弁してやってください……などと言ったところで、この客は意にも介さないことは間違いない。
 ミキシンググラスの中身をバー・スプーンでステアしながら、糸井は溜息を吐いた。
「藤本さん、ソイツはダメです」
「お友だちだから?」
「友だちじゃありませんよ」
 糸井の言葉に池尾が不満げに口を開きかけたが、野郎の質問のほうが早かった。
「じゃあなんでダメなの?」
「俺のなんで」
 そう答えると池尾の開いた口がそのまま固まり、同じように隣の男も、ついでに連れの優男も口を開けた。
「え、糸井ちゃん、いつの間にそっちもオッケーになったの? なんで言ってくんないの? あんなに前から誘ってたのにさぁ」
「俺は下は嫌なんですよ」
「またまた、ホントは違うんでしょ? ねぇどうなの? 糸井ちゃん上に乗っけてるの?」
 後半は池尾に向けたものだ。
「え? は? 上に乗っける?」
「ほらほら、わかってないみたいだよ? 糸井ちゃん」
 せっかくの助け舟を無駄にしやがって……。糸井は内心舌打ちして優男の前にマティーニのグラスを置いた。
 それからテーブル席のサラリーマンたちに呼ばれて会計を済ませ、送り出して戻るとカウンターの様子は相変わらずだったが、ちょうど男が池尾の手を握るところを見て心底うんざりした。
 このままだと冗談じゃなく、旧友は遅からずケツの処女を──糸井が知らないだけで既に捨てていたとかじゃない限り──失うことになる。
 無防備なバカの自業自得といえばそれまでだし、むしろそんな目に遭えばコイツも少しは他人のことに気を回せるような人間に生まれ変わるのかもしれない。ただし、とばっちりを喰らうのだけはご免だった。
 ──仕方ねぇ。
 何度目かの溜息を吐いて彼らに近づいた糸井は、池尾の背後から手を伸ばして顎を掴むと、有無を言わさず仰向かせて唇を塞いだ。
 池尾に向かって甘ったるく囁いていた野郎が虚を衝かれたように黙り込み、音量を絞って垂れ流してあるジャズが久々に耳に触れる。
 呆気に取られて薄く開いたままの唇を芳醇なバーボンの香りとともにじっくり舐め取って離れたとき、旧友は豆鉄砲を喰らった鳩さながらの表情で糸井をガン見していた。
 ンな間抜け面曝してたら、そういう仲じゃねぇって知れちまうだろうが? 目で圧力をかけて伝えてみるものの、この分じゃアイコンタクトは通じそうにない。
「なぁ池尾。照れ臭ぇのはわかるけど、こんなときにまで知らねぇフリすんなよ。お前にそんな仕事させたら俺が心配で居ても立ってもいらんなくなるの、わかってんだろ?」
 両手で頬を包み込んで優しげに低く囁くと、池尾のツラがいよいよ混乱の色を貼り付けたままフリーズして動かなくなる。
 糸井は身体を起こし、その阿呆面が野郎の目に触れないよう池尾のカウンターチェアをクルリと向こうに回して振り返った。
「こういうわけなんで、コイツにちょっかい出すのは遠慮してもらえませんか」
「わかった。ねぇ糸井ちゃん」
「はい?」
「下になってもいいって気になったら、いつでも連絡してね。待ってるから」
「そんな日は来ません」
 答えながら、ふと気づいた。野郎の連れの視線に。
 さっきまで隣の2人に嫉妬の眼差しを投げつけていた優男は、今は打って変わってやたら熱っぽい目を糸井に寄越していた。
 ──勘弁してくれ!!
 まったく、この旧友に関わるとロクなことがない。
 
 
【END】

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