「──って、中島のヤツが言ったんだよ、そんとき」
「あぁそうかよ」
 ダスターでカウンターを拭きながら旧友の世間話を聞き流していた糸井は、池尾の向こうにあるボトルを片付けようと手を伸ばした。
 すると池尾が一瞬、身体を硬くしてから大袈裟に息を吐いた。
「あービックリした。キスされるかと思った」
「はぁ? 何言ってんだ?」
「だってこないだしたじゃん?」
「あれはしつけぇ野郎を追っ払うための方便だろうが? あのまま放っといたらマジでお前、そのへんのホテルに連れ込まれてたぜ」
 言って煙草を咥える糸井を見上げ、池尾が何かを考えるツラで首を傾げた。
「まぁでも、してもいいぜ?」
「は?」
「キス」
「するかバカ、お前と違って女に不自由してるわけじゃねぇんだ」
「俺だって不自由なんかしてねぇよ」
「良かったな、お互いキスする相手がちゃんといて」
「けどさぁ女とはできて小学校からの付き合いのトモダチとはできねぇって、考えてみたらおかしくねぇ?」
「おかしいのは池尾、お前だ」
「えぇ? なんでだよ?」
「テメェの胸に手を当てて訊いてみろ」
「俺の胸は糸井がおかしいって言ってるぜ?」
 もう面倒くさいからそういうことにしておいた。
「わかったわかった、女とはできるってのに小学校からのダチとはキスできねぇ俺がおかしいよ」
 投げやりに返してカウンターを離れ、掃除のためにテーブルに上げていた椅子を下ろす。
 テーブルの天板にもダスターを掛けていると、じゃあしようぜ? とカウンターから気の抜けた声が飛んできた。
「じゃあじゃねぇよ、できねぇって言ってんだろうが」
「なんでできねぇの?」
「だから──つーか何なんだお前は、そんなに俺としてぇのか」
「まぁ、いろいろ端折って結論を言えばそーいうことになんの?」
「何のためにだ?」
「理由なんかいんの? 糸井お前、女とキスするときにコレは何のためだとか事前に説明すんのかよ?」
「お前は俺の女じゃねぇし、不自由してねぇんなら事前説明もなしにやりゃあいいじゃねぇか、女と」
「だからソレはソレ、コレはコレだろ?」
「池尾」
「うん」
「お前の言ってることはさっぱりわからねぇ」
 溜息を吐いた糸井がカウンターにダスターを放り、煙草を消して看板の準備のため入口に向かいかけたとき、スツールから飛び降りた池尾が体当たりする勢いで駆け寄って来て扉の前に立ちはだかった。
「するまで開けさせねーよ!」
「お前な」
 やれやれだ。
 再び溜息を吐いた糸井は次の瞬間、池尾の胸倉を掴んで脇の壁に押し付けざま唇に噛みついた。
 先日の野郎向けの方便とは違って顎を掴んだ手で口を開かせ、舌を捩じ込んで歯がぶつかり合うほど深く喰らいつく。
 もしも池尾が本気じゃなかったとしても知ったこっちゃないが、糸井が知る限りコイツは本気でこういう意味不明なことを考えるヤツだ。だから言葉じゃなく身体で伝えるほうが手っ取り早くて確実だった。いい加減にしろ、という意思表示を。
「ン──んっ……?」
 自分から強請っておきながら面食らいでもしたのか、池尾の手のひらが戸惑うような仕種で腕から肩へと移動する。
 構わず繰り返し角度を変えながら可能な限り粘膜を舐め回して舌をしゃぶり、唾液を啜り上げると、池尾はひとつ震えてノドの奥で喘いだ。
 BGMもない開店前。
 静かな店内には旧友同士が交わし合う濡れた音と息継ぎだけが響き続け、やがて根を上げたらしい池尾が糸井のシャツの襟を掴んで声を漏らした。
「いと──ちょ、待っ……」
 が、まだ許さない。中途半端に放置すれば、コイツはまた同じバカを言い出すに決まってる。
 それがわかってるから両手で頭を固定して舌を奥まで突っ込み、嫌というほど貪り尽くした末、くぐもった抗議とともに思いっきり髪を引っ張られたところでようやく解放してやった。
「気が済んだか?」
「──」
 呆然と投げて寄越す目と吸われ続けて色づいた唇が、どちらもたっぷり濡れている。壁に背中を預けたまま両脚が小刻みに震えてるのを見て、糸井はテーブル席の椅子を一脚引き寄せてやった。
 それから表に出て看板を出し、灯りを点けて戻ると池尾がぼんやりと椅子に座っていた。
「これに懲りたら二度とバカなこと抜かすんじゃねぇぞ」
 糸井は言って煙草を咥えた。が、幾分マシになったツラで見上げてきた旧友はこんなことを言い出しやがった。
「懲りなかったら?」
「あぁ……?」
「俺、イキそうだった」
「店ん中で粗相をすんのはやめてくれ」
「なぁ、小学校からのダチとキスすんのも悪くねぇよな」
「死にそうになってたクセに何言ってんだ?」
「だって息させてくんねぇんだもん糸井。なんで平気なんだよ? 息さえちゃんとできてたら俺だってもっとやれたぜ?」
「あんなに震えながらか?」
「だからそれは酸欠じゃん? じゃあいいよ、そんなに言うならもっかい試してみよーぜ!?」
「じゃあじゃねぇし、二度としねぇ」
 糸井は咥え煙草で吐き捨てて天井を仰いだ。
 あぁクソ。身体を張って伝えてやったって、コイツ相手じゃ結局とんだ無駄骨だ──
 
 
【END】

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