自宅の玄関を出た野島は、出敷地内に建つアパートを遠目に少し眺めてから歩き出した。
 ついさっき、2階の引っ越しが完了したところだ。
 その部屋の住人、山田一太郎がいたのは1年余り。
 1年もいたというのに、彼に関しては最近になって突然、妙な好奇心が湧いたり不可解な白昼夢に見舞われたりしたものだったが、一体あれは何だったんだろうか。
 他にも謎はある。
 時折山田を訪ねてきていた雑誌モデルのようなイケメンがいたが、その彼を見かけたら知らせるよう、山田の別の友人に頼まれた。それもつい最近のことだ。
 その後ほどなく、件のイケメンが現れ──誓って言うが、別に普段からアパートの様子を見張ったりなんかしてはいない──どの住人に対しても、もちろん特定の住人に対しても、そんな振る舞いをするような大家では決してない──とにかくイケメンが現れたので、知らせるよう野島を脅した、もとい依頼した男に連絡した。
 連絡はしたものの何が何だかわからず、ついつい何度も双眼鏡──この依頼のために生まれて初めて致し方なく購入したものだ──を覗いていたら、その依頼人と山田が玄関ポーチで揉めているのが見えた。
 何事だろうかと見ているうち、イケメンが──否、依頼人も別カテゴリのイケメンではあるが──とにかく雑誌モデル的なほうのイケメンが山田の部屋から出てきて、山田にキスをして帰って行った。
 山田の、あの唇に……
「──」
 野島はハッとして首を振った。
 危ない危ない。またあの白昼夢が訪れそうになった。
 それにしてもあの3人、三角関係の揉め事にしか見えなかったが事の真相は何だったんだろうか。
 ちなみにイケメン来訪のリークを依頼したほうの男は、その後も何度か見かけたし、今日の引っ越しの手伝いにだって当然のように来ていた。
 アパートの下に辿り着いた野島は、一度立ち止まって空を見上げた。まだまだ昼を回った時刻、陽は高い。
 2階の次の住人は、じつは既に決まっていた。
 1階と同じく今度も山田の紹介で、その新たな入居者も何度か見かけたことがある。
 たしか苗字は、1階とは打って変わって極めて平凡な佐藤だったか──そういえば、あの例の友人もサトウだったような?
 そう思って反芻すると、先日手続きに現れた当人、どことなくあの男に似てた気がする。いや、そういえばすごく似てたかもしれない。
「──」
 まぁ、どうあれ、それで入居を拒否するわけじゃないんだから関係ない。
 いずれにしても家族と友人がこのアパートに揃うんだから、山田も折に触れ現れるだろう。そのことが野島を少し元気づけていた。
 何故、そんなことで元気にならなきゃいけないのかは自分でもわからないが。
 ともかく、忘れ物などないかを確認するために階段を上がり、野島はドアを開けた。
 目に飛び込んできたのは、上がり框にできた黒い林と走り書きの紙切れ一枚──
『大家さんへ もらってください』
 玄関から差し込む昼下がりの陽光を、整然と並ぶ醤油ボトルたちが艶やかに照り返していた。
 
 
【山田オッサン編・完】

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