とある休日の夕方。
 野島は妻に頼まれ、醤油を買うために家を出たところでアパートの住人と出くわした。
 数年前、自宅を二世帯住宅に建て替える際に、スペースが空くからと敷地内に建てたアパートだ。とはいえ部屋数が多いのは面倒だからという理由で、上下一戸ずつのささやかな賃貸物件にとどめた。
 ちなみにここは妻の実家で、男やもめの義父との同居で、野島は婿養子だった。
 ひとり娘である妻と結婚するなら、野島家に入って家業の不動産業を継ぐこと。それが条件だったからだ。
 その選択が正しかったのかどうかは、今となってはよくわからない。家族経営に毛が生えたような職場ではいまだにアウェイ感があるし、自宅では何かと肩身が狭い。
「あ、こんにちはぁ」
 野島に気づいた住人が間延びした表情で挨拶を寄越した。よくスーツ姿を見かけるが、今日はTシャツとジーンズという休日らしい服装だ。上の階に住む三十代半ばの独身サラリーマンで、名前は山田一太郎という。
 一発で覚えるなというほうが無茶なネーミングの彼は、たしか野島より四、五歳上。痩せ型中背で平々凡々な、これといって特筆すべきところもない代わりにどこか妙な安心感を与える男だった。
「買い物っすか?」
 山田が言った。
「えぇちょっと、醤油を買いに行かされてるとこなんです」
「あげましょうか?」
 さらりと言った山田を野島は見た。
「メーカーとか何でもいいなら」
「え、あぁ、何でもいいと思いますけど……」
「じゃあ腐るほどあるから持っていきます? 引っ越しんとき、嫌がらせみたいにどいつもこいつも醤油ばっかくれやがったんスよねー。なんでだか」
 てかマジで腐ってっかも、と呟く横顔を眺め、野島はちょっと戸惑った。
 山田の申し出にじゃない。
 買いに行く面倒を省けるという僥倖よりも、彼が暮らす部屋を覗けることに心が弾んだ己にだ。
 もちろん大家だから、何かの折に入ってはいる。が、それらはいずれも業者同伴だったから──思って我に返った。
 何故、独身三十男の部屋を訪れるのに心ときめかなきゃならないんだ?
 心のなかで己にツッコんだとき、山田が言った。
「んじゃ取ってくるんで、ちょっと待っててください」
「え、あれ」
「一本? 二本?」
「いえ、一本でじゅうぶんですけど、あの、行きます上まで。いただくんだし」
 謎のトキメキへの自問もへったくれもなく置いて行かれそうになり、野島は慌てて言った。
 幸い、そーすか? としか言わず階段に向かった山田のあとについて二階に上がる。
 玄関を開けると、まっすぐ伸びる廊下の右手に洗濯機、左手にバスルームのドア。
 バスルームの向こう隣がトイレで、その向かい側がキッチンスペースになっている。
 正面にある居室のドアは閉まっていたが、そこまでの光景は山田自身同様に平々凡々な独身者の部屋に見えた。
「えーっと、あ、コレは醤油じゃねぇや」
 山田がシンク下の戸棚に頭をつっこんでゴソゴソやっている。
 Tシャツの裾から腰がはみ出てパンツのゴム部分が覗き、そこに記されたDIESELの文字だけは何だか彼にそぐわないような印象を受けた。
 パンツに金をかけるようなタイプには見えないんだけどなぁ。野島は思い、ジーンズの尻を眺めてまた思った。ウチの嫁より小さいな。
 ──その瞬間。
 突然、眩暈のような浮遊感に見舞われ、何かがわからなくなった。
 何がわからなくなったのかはわからない。
 気づけば靴を脱ぐのももどかしく四つん這いの尻に近づき、振り向きかけた山田の腰を抱き寄せて乱暴にジーンズを引きずり下ろしていた。
 え? ちょっと……戸惑う声を無視して手のひらで尻を掴むと、予想より遥かに滑らかな肌の感触に眩暈を感じた。
 ちょ、ノジマさん……逃れようともがく山田の、極めて平凡な風貌からは想像しがたい、その匂い立つような艶かしい表情。
 抵抗を許さず狭い廊下のひんやりとしたフローリングに押さえつけた途端、猛烈に湧き上がる征服欲。
 Tシャツを捲って脇腹に噛みつくと、山田が甘く息を震わせた。
 野島は顔を上げ、目の前に迫るその唇に──
 ハッとした。
「ノジマさーん!!」
 目の前に迫る山田の唇からデッカイ声が飛んできて、鼓膜が破れるかと思った。
 見ると山田はちゃんと服を着てるし、自分は靴も脱がず相変わらず三和土に立っている。
 もちろん、狭い廊下のフローリングの上で組んずほぐれつなんかやってない。
「え、あれ?」
「ちょっと大丈夫っすか? 何回呼んでも反応ないから心配しましたよォ」
 ちっとも心配してるふうじゃなく山田は言い、どれにします? と床を指差した。
 そこには醤油ボトルの林ができていた。
 誰でも知ってるようなメジャーどころの各種メーカーをはじめ、何だか高級そうなこだわりのブランドっぽいものまで、少なくとも十本はあろうか。
 どれでも好きなのいいっすよ。一本と言わず何本でも。何だったら全部。
 山田の声を上の空で聞き、上の空でひとつ選び、上の空で礼を言って野島は部屋をあとにした。
 ──何だったんだろう、いまの。
 フラつく足取りで階段を降りながら、つい今しがたの幻を反芻する。
 日常生活の抑圧が原因なんだろうか? だとしたら半端ないストレスだ。
 アパートの賃借人、それも年上の同性相手に、あんな団地妻シリーズみたいな白昼夢を……
 妄想のなかの、やけにリアルだった山田の肌の感触が手のひらに蘇った。
 本当はどんな手触りなんだろう?
「──」
 だからっ!
 またハッとしたとき、ちょうど上がって来ようとしている男に出くわした。
「こんにちは」
 にこやかな笑顔を向けられ、野島も気を取り直して挨拶を返す。
 何度か見かけたことがある顔だ。友人のひとりらしく、たまに山田の部屋に出入りしている。
 何者かは知らないが、まるでメンズ誌の表紙でも飾りそうな長身のイケメン。何てことはない白シャツにダークブルーのデニムというファッションも、ファストファッションとは一線を画す高級な匂いがする。
 男は野島の手の醤油をチラリと一瞥し、ソツのない笑顔を浮かべた。
「山田さんのお友達ですか?」
「あ、いえあの、大家なんです」
「これはどうも、山田さんがお世話になってます」
 いえいえこちらこそ……何だかわからない挨拶を交わし、コンプレックスを刺激するばかりの訪問者と別れた。
 二階に上がって行く長い脚をちょっと眺めてから、自宅に向かって歩き出す。
 ついつい、溜息が出た。
 あんな人生が満たされてそうな男は、決して山田の部屋の玄関先で自分みたいな白昼夢を見たりはしないんだろうな。
 
 
【END】

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