玄関のドアを開けた山田は、中に見慣れた顔を発見してそのままドアを閉めた。
「──」
 それは、見慣れてはいるがここにあるはずのない顔だった。
 ほんのちょっと前まで同居人だった同僚。
『元』同居人のハズなのに、このボロアパートで山田んちの一室を占拠し続けてる男。ただし占拠してるのは本人じゃない。荷物だ。
 なのに荷物の持ち主の姿を、いま食卓に見たような気がするけど錯覚だろうか。
 ──生き霊?
 山田はポツリと思い、外廊下の手すりに凭れてポケットから煙草を取り出した。一本抜いて咥え、火を点ける。
 が、一服すると同時に目の前のドアが開いて、はずみで噎せ返った。
「何やってんだ山田」
 顔を出した佐藤が呆れたように言った。
「や、別に」
 山田は気を取り直して手すりに肘をかけ、何食わぬ顔で煙を吐いた。
「お前こそ何してんだ佐藤」
「明日こっちで午後イチの会議に出っから、今夜のうちに来とこうと思って」
「あ、そう。お忙しいことで」
「お前こそ忙しそうじゃねぇか? こんな時間に帰宅とはな」
 もうすぐ日付が変わろうかっていう時刻だ。
 そしてこんな時間だというのに、部屋に上がり込んでた男もスーツの上着を脱いでネクタイを外しただけの格好だった。
「山田お前、飲んでんのか」
「どうこう言われる筋合いねぇよ」
「なに身構えてんだ、どうこう言わねぇよ別に」
「──」
「んで? 入んねぇのかよ」
「入るけど。てか俺んちだし」
 山田は煙草を咥えたまま部屋に入った。食卓の灰皿からも紫煙が立ちのぼっていた。おぼえのある匂いが台所に充満している。しばらく絶えていた佐藤の匂いだ。
 山田が鞄を部屋に放り込んで便所に入り、洗面所で入念に手を洗って戻り、食卓を回り込んで冷蔵庫を開け、牛乳を取り出して灰皿に煙草を置き、腰に手を当ててパックのまま直飲みしてプハーッと息をつき終えた瞬間、椅子に座っていた元同居人が口を開いた。
「なんか言うことねぇのか?」
「わぁ!」
 山田は喚いて牛乳パックを取り落としそうになり、険しい形相を佐藤に向けた。
「ビビらせんなよ、危ねぇだろ!」
「は? なんでビビんだよ」
「いねぇはずのヤツがいたら霊かと思うだろ、霊がいたら見ねぇフリするだろ、なのに話しかけてくんじゃねぇ!」
「相変わらずわけわかんねぇな山田。変わんなすぎて安心したぜ」
「あーその言い草、リアルすぎるぜ佐藤の霊」
「いいから、言うことあんだろうが?」
 もはやスルーの佐藤に山田は舌打ちし、灰皿で燻っていた煙草を消した。
「そんで? 言うことって? 別にねぇけど?」
「あんだろ、おかえりとか」
「あーおかえり、てかまたあっち戻るんじゃねぇか、どーせ」
「元気か? とか」
「あー、元気か? てか見りゃ元気なのわかるけどなフツーに」
「会いたかったとか」
「会いた……かあ? ねぇよ別に」
「もう行くなとか言ってみろよ、ひとりにするなとか」
「や、思ってねぇから言えねぇし」
「思ってねぇんだったら来てみろ、こっち」
「は? どんな理屈?」
「何、警戒してんだ。なんか意識してんのか?」
「してねぇし、行けるし、警戒とか意味わかんねぇし」
 山田はタラタラ歩いて佐藤に近づいた。
 目の前で仁王立ちしてみせたその腰に手のひらで触れた佐藤が、両手で引き寄せて有無を言わさずワイシャツの腹に喰らいついた。
「! ちょ、さと」
「山田」
 低い唸りと呼気の生々しい熱が鳩尾にくぐもり、山田がヒクリと震えて息を吐く。
 布地越しに噛まれた肋のあたりが灼けるようにヒリついた。
「何やって──おい佐藤」
「お前を嗅いでる」
「はぁ!? ヘンタイかよっ……」
 強引に抱き寄せられて佐藤の膝を跨ぐように座らされると、低い笑いが山田のノド元に響いた。
「重いな、やっぱ」
「誰と比べてんだよ……てかお前、ンなトコに痕──」
「別に誰とも比べてねぇよ」
 ノド仏を噛んだ唇が笑いの形に歪んでるのを感じる。ネクタイにかかった指がゆっくりと結び目を解き、引き抜いていく。
 帰還した痕跡を首筋に刻む元同居人。
 シャツのボタンを外されながらその髪に指を差し入れ、懐かしい煙草の匂いに思わず瞼を閉じた部屋の主は、無意識にか、抱いた頭に頬を埋めて溜め息を漏らした。
「お前こそ誰かと比べんじゃねぇぞ、俺を」
 言いかけた男が、あぁ、と思い直したように呟く。
「──いや、やっぱ比べろ」
「はぁ? 何だよ」
「比べて、俺が一番いいって言えよ」
「お前、何言って……」
「俺が一番だろ? なぁ山田」
 低く囁く声に山田が震え、触れ合った唇にビクリと身体が揺れた。背ける顎を佐藤の手が掴んで戻す。
「逃げんなよ。ひと晩しかねぇんだ、恥ずかしがってる場合じゃねぇぞ」
「別に恥ずかしがったりとか──」
「じゃあ正直に言えよ、俺じゃなきゃダメだって」
「──」
「山田」
 声とともに項を掴まれて唇が重なる。
 耳たぶまで赤く染めた山田が、全身を硬くして息を詰める。が、最後には観念したように力を抜いて舌を受け入れた。途端に体温が急上昇して、佐藤の膝に載った腰が小さく震えだす。
「──も、やめ……」
「俺とキスすんのは嫌か? 山田」
 山田は答えない。その唇を舐め取って吸って離れ、また佐藤が囁く。
「なぁ。ドキドキしてたまんねぇんだろ?」
 だれが、という声は吐息に紛れて掠れた。
「俺が一番よくて、ホントは離れたくねぇって言えよ」
「どんな妄想……ん、ぅ」
「キスするたびにンな色っぽいツラでねだりやがって、違うとは言わせねぇぞ」
「ちが──」
「俺は違わねぇ」
「──」
「お前が目の前にいるとすげぇ興奮する。こんなのはお前だけだ」
「ッ……」
「俺は離れていたくなんかねぇ」
 触れた唇の隙間から山田の溜め息が漏れ出る。肩から剝ぎ落とされたシャツが、乾いた衣擦れの音を立てて床にわだかまった。
「五百キロの彼方でお前が他の野郎に抱かれてることを考えただけで、どいつもコイツも殺してやりたくなる」
 あらわになった首の付け根にうっすらと残る、誰かの痕跡。
 そこに目を据えていた佐藤がゆっくり近づき、噛みついて、上書きするように歯を立てた。
 呻いて背を反らす山田の腕が、佐藤の肩に絡んで縋りつく。首から這い上がった舌先が耳たぶを舐め、耳殻を辿って潜り込む。奥まで侵される感覚に山田が細く啼いて喘いだ。
「明日になったら忘れてやる。だから言え、山田──」
 
 
【END】

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