彼女が来るのは久しぶりだった。
 とは言っても前回現れたのが数ヶ月前で、その前は1年ぶりだったから、前々回からのブランクよりは短いスパンだと言えた。
 また少し伸びてきた髪を時折耳にかける仕種を見せながら、今日も手元で広げたハードカバーに目を落としている。訊きたいことも言いたいこともあるにはあったが、グラスがカラになったときだけ上げて寄越す目を見ていたら、悪い意味じゃなくどうでもいいと思えてきた。
 そんな彼女は帰り際、茶色いリボンのかかった小さな黒い箱をカウンタに置いてさらりと言った。
「これあげるわ」
 意味がわからず見返すと小さく笑われた。
「いやぁね、バレンタインよ今日」
「あぁ……」
 会社で配った義理チョコの余りか? そんな軽口を叩く気持ちは、数席離れた場所から突き刺さる視線を感じて萎えた。
「どういう関係?」
 入口の外で見送って戻るなり池尾が訊いた。
 ちなみに彼女だけじゃなく、コイツを除いて客はみんな帰った。何故なら、じき閉店時間だ。
「あぁ?」
「何回か見たことあるよな。ちょっと前にも1回いたけど、もっと前にはちょいちょい来てた時期なかったっけ」
「訊くまでもねぇだろ、別れた女だよ」
「あ、やっぱ付き合ってたんだ? あの頃。何で言わなかったんだよ」
「何でお前に言わなきゃなんねぇんだ?」
 すると池尾は未知の生物でも発見したかのようなツラで、しばし目と口をポカンと開けて糸井をガン見した。
「俺たち、幼馴染みってヤツだよな?」
「はぁ? 知らねぇし、だとしてもそれが何の関係があるんだ」
「彼女の話とかするよな当然?」
「俺はお前の女の話なんか聞いたことねぇよ」
「えぇ? 話してるし! 糸井が聞いてねぇだけじゃん!? てか聞いてなかったのかよ今までどれも全部!?」
 否定はしなかった。この仕事のおかげで随分改善されはしたが、昔から関心のない話は聴覚に触れない体質だ。それこそ、コイツの女のことなんか耳に入ってるわけがない。
 だから代わりに言った。
「そもそも全部とか言うほど、お前に女がいたとは思えねぇ」
「聞いてなかったくせに言うことはソコかよ?」
 それも聞き流して洗い物を始めると、カウンタの向こうで池尾が頬杖を突いた。
「んで、ヨリ戻したりすんの?」
「はぁ? いや別に、そんなんじゃねぇっつーか考えてねぇけど」
「でも今チョコもらってたじゃん?」
「来ようと思い立ったら、たまたまバレンタイン当日だったからじゃねぇか?」
「ふーん? あ、俺も会社でもらった義理チョコいっこやろうか?」
「いらねぇ」
「なぁ糸井」
「何だ」
「キスしねぇ?」
「しねぇよ、バカ」
「なんで?」
「逆に訊く。なんでお前としなきゃなんねぇんだ?」
「じゃあ訊くけど、なんでしたらいけねーの?」
「──」
「ていうかもうしたコトあんじゃん? 今さらグダグダ言う必要なくねぇ?」
「──」
「飲みに行こーぜとかラーメン食いに行こーぜとか言えば行くだろ? 一服しよーぜって言えば吸うだろ? それと何がどう違うんだよ」
「──」
 いちいち反論するのがバカバカしくなって黙っていると、池尾がカウンタに両手を突いて身を乗り出してきた。
「てかさぁ、いっつも思ってたんだけど、こっから届くのかやってみねぇ?」
「あァ?」
「ここで煙草から直で火ィもらうときにさぁ、なんかキスするみたいな体勢だなぁって常々思ってたんだよなぁ」
「お前はンなこと考えてたのか」
「なぁホラ、四の五の言わずにやってみよーぜ?」
 コイツの言ってることは限りなく面倒クセェ上に、コイツを諦めさせるのも限りなく面倒クセェ──
 溜息を吐いた糸井は手を伸ばして無造作に池尾の顎を掴み、上体を屈めて唇を重ねてやった。
 隙間に舌で触れると、池尾は言い出しっぺのくせに逡巡するような風情で開いて慎重に受け入れた。前回したとき息継ぎがどうたらって文句を垂れてやがったから、無意識に警戒でもしてるのかもしれない。
 全く、何から何まで面倒クセェ──
 とはいえ同じ不平を浴びるのも腹立たしいから今回はゆっくり、徐々に深く絡めていく。
 角度を変えるときにも息を継ぐ余裕を与えつつ、しばしカウンタ越しに唇を交わしてから離れると、池尾が閉じていた瞼を開いてじっと目を寄越してきた。
「何だ、息できただろうが」
「いや別にそうじゃなくて……こっからでも届いたなぁって思って」
「確認できて気が済んだか?」
 糸井は投げ出すように言って、表の閉店作業のために外に出た。
 しょっちゅう閉店後までいる友人は、だからって片付けを手伝ったことなんか皆無だった。が、間違ってもアイツにそんな期待はしちゃいない。
 慣れた手順で作業を済ませて戻った途端、スツールの上の池尾が両手をパチンと合わせてから腕を広げて構えるような姿勢を取った。
「よし来い」
「はぁ?」
 カウンタの中に戻りかけた糸井は、足を止めて友人の怪訝な表情を見返した。──何だ、そのツラ?
「え、入口を気にせずキスするために閉めてきたんじゃねぇの?」
「ンなワケあるか、時間だから閉めたんだよ」
「あれ、もうそんな時間?」
「もうそんな時間だ。お前、また終電ねぇぞ」
「まぁいいや、泊めてくれんだろ?」
「──」
「さて、じゃあするか」
「じゃあじゃねぇだろ。さっきはカウンタ越しに届くかどうかの確認で、今度は何なんだ」
「だって、客が来る心配をせずに思う存分やれる環境が整ったよな?」
「客が来る心配なんかしてたのか? お前が?」
「え? 糸井お前、しなかったのか? マジで? だって店じまいしてねぇんだから誰か入って来るかもしんないじゃん? なのによく平気でキスなんかしてられるよな」
 糸井は本気で思った。コイツの頭をボトルで叩き割れたら、どんなにスッキリするだろうか。
 が、自分は同級生に椅子を振り下ろすヤツと同類では決してないし、そうなれたのもひとえに、こんなにもデリカシーの欠如した野郎と長年付き合わされた賜物だ──
 糸井は深呼吸で己を鎮めると、感謝すべき旧友の背中を手のひらで引き寄せて唇を塞いだ。
 それでも不穏に騒めく腹の虫に持ってかれないよう、努めてやんわりと貪るために別の相手を脳裏に描く。
 あの頃は彼女も度々、閉店後までここに座って片付けが終わるのを待った。
 ただし人のテリトリーに入るのを嫌う女だったから、手伝うということはせず持参したハードカバーに黙々と目を落としていた……その点は、理由はどうあれコイツと大差ないのかもしれない。でもそれ以外は違う。
 当時は閉店作業を終えるとカウンタに近づき、背中を抱き寄せてキスするのが常だった……今日はコイツ相手に、同じことをさせられてるけど。
 そうだ、彼女としていたときとは角度が違う。唇はもっと低い位置にあって──不意に、池尾の手で頬を挟まれて唇が離れた。
「糸井お前、さっきの女としてるつもりでやってねぇ?」
「お前に関係ねぇだろうが?」
「ここでそういう風にキスしたのかよ?」
「だからお前に関係ねぇ」
「俺に関係ねぇって言うなら、あの女のことは考えずにやれよ」
「──」
 その顔面を掴んで押し遣りたい気持ちに駆られた糸井はしかし、薄く開かれた唇を塞ぎ直して舌を深く捩じ込んだ。池尾の鼻腔から微かな喘ぎが漏れて、頬を挟んでいた両手が首筋から項に滑る。
 知らず、背中を抱く手のひらに力が籠もった。混ざり合う呼気にふわりと甘く香るのは、さっきまで旧友が飲んでいたキャプテンモルガン・スパイストのバニラフレーバーだ。
「──なぁ糸井?」
 絡み合う舌が解けた合間に、唇のそばで池尾が呟いた。
「女との身体の相性とかってあるじゃん?」
「あァ……?」
「あーいうのとおんなじでさぁ、俺、お前とキスの相性がいいみてぇだなって思って」
「やめてくれ」
「あの元カノとヨリ戻しても、俺ともキスしようぜ?」
「何言ってんだ? するわけがねぇ」
 
 
【END】

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