『空室』のプレートに目を遣ってドアを開けた山田は、ノブを掴んだまま動きをとめた。
 社内で唯一、喫煙オーケーな会議室。
 このご時世にそんな空間が存在すること自体、たぶん珍しい。ここがなくならない理由についてはいろんな噂があるものの、とにかく吸えるなら部屋の存在理由なんかどうでもいい。
 で、喫煙所に行ったら掃除のオバチャンが灰皿清掃をやってたモンだから、それならばとこっちに来てみた山田だった。
 そしたら見慣れたツラが部屋を独占してた。
「あれ佐藤、お前もか」
「は? 何が」
 椅子のひとつにふんぞり返ってた佐藤が、咥え煙草のまま応じた。
「喫煙所が掃除中だから来たんじゃねぇの?」
「知らねぇよ、さっきまで会議だったんだから俺は」
 言われてみればテーブルに会議の資料らしきモノがある。
「あっそう、なーんだ。んで、一人残って何やってんだ? サボリ?」
「早く終わったんだよ、予定より」
「すげぇ」
 何がスゴいのかと言えばもちろん、延長という単語の代名詞とも言える会議ってヤツが速やかに終了したという点だ。
「そんでお前は何、喫煙所が掃除中だから来たのかよ? わざわざ」
「悪ィかよ?」
 山田はパッケージを取り出し、一本咥えた。佐藤が資料の隣の灰皿に灰を落として訊いた。
「表のプレート、どうなってた?」
「は? あー、空きになってたかなぁ。だから入って来たんじゃん、俺」
「使用中にしとけよ。誰か開けたら面倒くせぇだろ、会議終わってんだから」
「命令すんな俺に」
 言いながら入口のドアを開けた山田は、プレートをスライドさせてまた閉めた。
「あ、火がねぇ。貸して佐藤」
「お前は火も持たずに煙草吸おうとしてたのか」
「うるせぇな、お前が持ってたんだからいいじゃねーか」
 佐藤が無言でテーブルに百円ライターを放った。
 タラタラ近づいて伸ばした山田の手を、ふいに佐藤の手が押さえた。
「何だよ」
「なぁ、なんかよくねぇ?」
「は? 何が?」
「昼間っから誰もいねぇ会議室で、とりあえず誰も入ってくる予定ねぇし?」
「あー、まぁなぁ? 天気いいしなぁ? ま、天気カンケーねぇけど、窓ねぇしココ。つーか離せよ、暑苦しいだろ」
 山田が言うと佐藤は黙って手をひいた。が、その手は立ったままの山田のウエストから無造作にシャツを引き抜きはじめる。
「あ? 何やってんだよ?」
「何でもねぇよ」
「何でもねぇのに捲んな、見るだけでも高ェんだからな俺は」
「高ェっていくらだよ」
「えーっと、三万ぐれぇ?」
「じゃあ、触ったらいくらだよ?」
「そうだなー、四万?」
「フルコースは?」
「五万とか?」
「ボッタクリじゃねぇ?」
 佐藤は笑い、目の前にある山田の腰を引き寄せた。
「まぁ、了解。五万な」
「え? おい?」
「じゃあ、商談成立ってことで」
 言いながら改めてシャツの裾を捲り、腹に舌を這わせる。途端に山田がビクリと震えた。
「やめろってっ」
「静かにしてろよ、人が来んだろ」
 山田がうっかり、言われるままに声を噛む。が、布地越しに股間を握られるとソレはすぐに溶け出してきた。
「あ……」
 吐息。点火されないまま山田の指に挟まっていた煙草が、テーブルに転がって床に落ちる。
「てめ、この佐藤っ……マジ何考えてんだ昼間っからっ」
「昼間に欲情しちゃいけねぇ法律でもあんのかよ」
「会社だろっ、ここ!」
「山田のくせに何、常識人ぶってんだ? 大丈夫だって、使用中じゃねぇか」
 たしかに表のプレートはそうなってる。でも鍵がかかってるわけじゃない。
 立ち上がった佐藤がテーブルの上の資料を遠ざけた。そのまま山田の腰に手のひらが回り、唇に佐藤の唇が重なった。
「ッ、!」
 毎度のごとく、弾かれたように震えて硬直する山田。が、頑なに噛んだ唇は呆気なく侵略され、腰をテーブルに押し上げられて脚の間に佐藤の身体が割り込んだ。
 会議室に響く唾液を交わす音、そこに混じる衣擦れの──山田のネクタイが解かれる音。ついでに絡んでいた舌も解けると、山田の頬がほんのり染まっていた。
 その潤んだ眼差しをちょっと眺めた佐藤が、解いたネクタイを掬って唇の端で笑った。
「んなツラしてっとマジで食っちまうだろうが? フルコース」
「はぁ? どんなツラ……」
「せっかくだけど、いくら何でもここで突っ込む気はねぇよ。十分後には次の会議の予約が入ってるしな、残念ながら」
「ッ──残念じゃねぇし、会議室でセクハラされたって言いつけてやるからな、お前んとこの課長に!」
「どうせなら文書にして掲示板にでも貼っとけよ、一階のロビーとかの」
「つーか佐藤テメェ! だったら何でわざわざネクタイ解いたんだよ? 結び直すのメンドクセェじゃねーかこの野郎っ」
「しょうがねぇだろ。解いてるときは忘れてたんだから、次の会議の存在を」
「約束の五万払えっ」
「フルコースやってねぇし。キスしかしてねぇじゃねぇか」
「じゃあクチビル代払えよ」
「唇の料金なんか聞いてねぇし」
「俺の唇はお前、値段なんかつけらんねぇぐらい高ェんだぞ!」
「値段つけらんねぇんなら払いようがねぇだろ」
「値段がつけらんねぇんだから、毎月の安月給からテキトーな額を払い続けろ一生」
「結婚してほしいのか?」
 山田の口がポカンと開いた。
「──はぁ?」
「一生、俺の給料で養ってほしいっつー話じゃねぇのかよ」
「あァ? ワケわかんねーこと言ってんじゃねぇよ」
 突然クルリと方向転換した山田が再び百八十度回り、床に落ちていた煙草を拾って咥えてもう一度背を向けた。
「おい、どこ行くんだ?」
「喫煙所」
「まだ掃除してんじゃねぇの」
「もう終わってんだろ、いい加減。つーか終わってなかったら外行って吸うし」
 言いながらドアを開けようとした山田は、ハッと立ち止まってネクタイを締め直した。こんな格好のままドアを開けて誰かと出くわすわけにはいかない。
 舌打ちしてシャツの裾をウエストに押し込む山田の腰を、後ろから回った腕が抱き寄せた。
「何だよっ」
「耳が赤ェよ? 山田」
 その赤い耳を咥え込んだ唇が、とある単語を低く囁いた。聞き憶えがある。いや見憶えというべきか。ソイツは会社と最寄り駅の中間に位置するホテルの名前だった。
「はぁ? それが何……」
「喫煙所が掃除中だったら外行くんだろ? せっかくわざわざ出るんなら、ゆっくり吸いてぇよな? 個室で、誰に遠慮することもなく」
「いや別に俺は下のロビーでも、てかちょ、さとっ、あ」
 手のひらが股間に滑って緩く掴んだ。さっき軽く弄られたあと、中途半端に放り出されてしまったモノを。
 震えて身じろぐ山田の顎を持ち上げ、息を吐く唇を塞ぎながら佐藤が言った。
「唇の料金もそこで払ってやるよ、ひとまず今月分な?」
 
 
【END】

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