一番最初にメシを食い終えた田中は、皿を押し遣って煙草を咥えた。
「こっちやんなよ、狭ェだろ」
 向かい側の山田が口からパスタの麺をブラ下げたまま渋い顔をする。
 田中の隣に佐藤、山田の横には鈴木がいた。すっかりこのメンバーに馴染んだ鈴木も、そろそろ研修期間を終えて独り立ちする。
 山田が新人の面倒を見るのはこれで二人目だった。去年初めて担当したヤツは、今春早くもヨソに異動していった。
 それにしても、他に適任そうなヤツがいくらでもいるにもかかわらず、何故かわざわざ山田が選ばれる。
 お世辞にも真面目とは言えない勤務態度のくせに、山田はデカイ仕事を取ってくる。とにかく客のウケがいい。
 そのテクニックを盗めということなのかもしれないが、山田のウケの良さは天然だ。
「悪ィな、つーか汚ェよ。口に入れろ麺をよ」
 田中は答え、皿を戻すでもなく煙草に火を点けた。
 こうして山田を見ていると、時々不思議な気分になる。
 毎日顔を合わせ、普通に喋って普通に馬鹿やって普通に笑う、そんな日常に山田が混ざってることが不思議でたまらない。
 あれから、特に距離が縮むこともなく卒業を迎えるまで、あの一夜は夢か幻だったんじゃないかと思えるほど山田とは相変わらずの仲だった。
 つまり、全くの他人状態。
 次に校内で顔を合わせた時、すうっと逸れていった目を見て、山田が宣言通りなかったことにするつもりでいるらしいと田中は悟った。
 でも、それで良かったんだと思う。そうでなくても実際あの時期、山田に気を取られることなく過ごすために、田中は少なくとも受験勉強と同等の気力を費やした。
 今となっては、そうまでして辿り着いたのが同じ会社だと思うと馬鹿馬鹿しいことこの上ない。が、とにかく当時は、ともすれば噴き出しかける記憶を封じ込め、忘れたフリをして受験に臨み、卒業式の日には二度と会うこともないだろうという程度の気持ちで遠くに山田の姿を眺め、そして大学生になった。
 それからの四年間は、ごく平均的で人並みに恋愛もして、それなりに充実した生活を送った。
 田中は煙草を咥えたまま、煙の向こうにぼんやり山田を眺めた。
 セックスに興味津々な高校生の頃ならいざしらず、いま同じように迫ったとしても、山田はあんなにあっさり流されただろうか。
 あの頃感じていた不安定な危うさは、イコール若さってヤツだったのかどうか──再会してからの山田は、そんな一面を持っていたことが嘘のように乾ききってる。
 砂みたいに。
 乾いて、掴みどころがない。
 田中は食い終わって煙草を取り出す山田を眺め、何度も繰り返してきた問いを胸の裡に繰り返した。
 入社式の夜、親睦会の店のトイレで出くわした時。
 ひとことでもあの夜について触れていれば、何か変わってたのか?
「──」
 田中はひとつ瞬いて煙を吐いた。考えたってどうにもならないのはわかってる。
 煙草くれよ山田、と隣で佐藤が言った。
「はいよ」
 パッケージを手にしていた山田が、皿の間から器用に滑らせた。
 受け取った佐藤は一本抜いて咥え、ふとこっちを見て呟いた。
「そういや、田中もおんなじ煙草だよな」
「そういえばそうですね」
 斜め前で鈴木も言う。
 思わず山田を見た。目が合った。
 山田も田中を見ていた。
 雨の夜、忘れろ、と言って寄越したのと同じ目で──そう感じたのは錯覚だろうか。
 どちらからともなく視線を外すと、佐藤がツッコんだ。
「何だ? 今のアイコンタクト」
「触れてはいけない部分だったとか?」
 これは鈴木。
「煙草がお揃いで悪いか」
 田中がそう言って密かな動揺をゴマかすと、正面の山田が、
「俺たち仲良しだもん。パンツだってお揃いだもんね!」
 ヘッ、と笑って偉そうに適当なことを言った。
「パンツ?」
 鈴木が訊き返し、
「山田のあの、アレとおんなじヤツ穿いてんのか? 田中」
 佐藤が無表情でツッコんでくる。
「アレってのは何だ、試してんのか? 俺たちの仲良し度を」
 と返す山田に続いて、
「つーか佐藤、同棲してるからって山田のパンツに詳しいようだな、お前」
 田中は言いながら、そういえば結局あの夜、山田が帰るまでパンツを穿かせなかったなと頭の隅でぼんやり考えた。
 ひとしきりパンツネタが続いたあと、四人はようやく席を立って店を出た。
 社に戻る途中、隣を歩いていた佐藤がふと手を伸ばし、無言で山田のシャツの胸ポケットから煙草の箱を引き抜いた。
 視界の端に映った二人の様子に、何気なく田中は目を向けた。
 別に何だというわけじゃない。ただ何となく眺めただけだ。
 が、佐藤の指がパッケージを戻した時の、山田の一瞬の表情が意識を引っ掻いた。
 ピクリと眉を寄せた、困ったような怒ったような表情の変化。
 佐藤の手を払いながら睨みかけた山田と視線がぶつかった時、妙にぎこちない仕種で目を逸らすさまを見て田中は思わず足を止めた。
 今まで考えてもみなかった可能性が、突然、頭の中に溢れた。
 まさか──いや、でもそんな。
「田中さん?」
 気づいた鈴木が振り返る。
「忘れ物でもしたんスか?」
「いや……何でもねぇよ」
 今の思いつきはひとまず打ち消し、田中はすぐに歩き出して彼らに追いついた。
 佐藤は何食わぬツラで煙草を吸っている。
 その向こうで山田が言った。
「あ。自販あっから買ってけよ佐藤、自分のをよォ」
 何事もなかったかのような声を聞きながら、田中も煙草を咥えた。
 火を点けてゆっくり煙を吐き出し、またあの問いを密かに繰り返す。
 もしも、たったひとことでも触れていれば──
 何か違ってたのか、山田。
 
 
【END】

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