「おい田中」
 リビングでぼんやりテレビを眺めていた田中は、突然の声にドキッとして振り返り、もう一度心臓が跳ねるのを感じて固まった。
「パンツはねぇの?」
 ぞんざいな口調で訊いてくる山田は、田中が貸したTシャツを着ていた。
 正しくは、Tシャツだけを着ていた。
 サイズが大きめだから腿の真ん中辺りまで隠れてはいるものの、その先は剝き出しの両脚が伸びている。
「だってお前、新しいヤツとかねぇし」
「けどコレ、俺のナマの股間で穿いていいわけ?」
 山田が言って、手にブラ提げていたスウェットを掲げてみせる。
「まぁ別に……洗濯するしさ」
「パンツだって同じことじゃねぇ?」
「そりゃそうだけど、お前がヤじゃねぇの」
「別に、洗濯するなら構わねぇんだろ?」
 山田が田中のセリフを引用して返し、そんなに言うならと田中は自室に向かった。比較的新しいものでも見繕うしかない。ちなみに山田の衣類は今、上から下まで丸ごと乾燥機の中だった。
 山田もついてきて部屋に入り、ベッドに尻をひっかけて座った。
「いい部屋だな」
「そうか? 普通だと思うけど」
「なぁ田中」
「あぁ?」
 田中はクロゼットを覗きながら背中で山田の声を聞いた。
「なんで、俺が抱いた女だからってミワとやったんだ?」
 振り返ると山田はベッドの端で片膝を抱えていた。何も着けていない下肢は、辛うじてきわどい部分は見えないアングルだ。が、脚のラインがひどく綺麗だと思った。
「なんでって──」
 公園で話した時は気が済んだような素振りで去ったくせに、何故また蒸し返すんだろう? やっぱり本当はミワのことが好きで、田中のことを腹立たしく思ってるのか。
 でも山田を見る限り、そんな感情は一切匂ってこない。
 もしかしたらその問いは、こんな時間に土砂降りの中、傘も差さずに制服姿で歩いていたことと何か関係でもあるんだろうか。
 それが何なのかなんて田中には見当もつかない。が、漠然とした危うさを嗅ぎ取りながら山田の脚に目を奪われたまま、唐突に、しかし明確なひとつの答えに思い至った。
 ミワは単なる代替品だ。手にしてみたかったのは、あんな女じゃない。
「田中……?」
 田中は無言で近づき、山田が抱える片膝に手のひらで触れて上体を屈めた。
 わけもなく人目を惹く不可思議な存在の、その正体を曝いてみたかった。山田が抱いたという女を通して、この身体を感じてみたかった。
 激しさを増した雨がサッシを叩く音がする。
 こんな天気──どうせ、もう帰れねぇだろ?
 頭の隅でこじつけて、見上げる山田の唇を塞いだ。予想したような抵抗はなかった。
 ただ触れる寸前、眉を顰めて見返してくる目の色に、何もかもが見透かされてるように感じた。
 
 
「──なぁ山田」
「あぁ?」
「お前もしかして、男としたことあんのか?」
 仄暗い部屋の中、慣れた目に映るのは乱れたベッドのシーツの皺と、そこに横たわる山田の身体の陰影。
 煙草を吸いたいという要求に躊躇したが、両親は明日の夕方にならないと帰らないし、少しぐらいなら平気かと頷いた。
 灰皿代わりの空き缶に灰を落としながら、山田は眠たげな声で答えた。
「あるわけねぇだろ、何だよ」
「いや……なんかすげぇ落ち着いてたから」
「落ち着いて見えたかよ? アレで」
「だって普通もっと、抵抗とかするんじゃねぇかと思って」
「抵抗したっていいけど、面倒クセェしな」
「あのな……面倒クセェからって、男にやらせていいのか?」
「自分がやっといて何言ってんの? お前」
 言って煙を吐く山田のツラには、笑いや呆れや不機嫌は一切見当たらない。ただひたすら、怠惰な肚の裡が口調と眼差しに滲んでいた。
 唇を奪いながら押し倒した時も、こんな調子だった。
 こういうことしたかったのか? 俺と。─山田は感情の知れない声でそう訊いた。
 田中はどう答えればいいのかわからなかった。そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
 いつも遠くに眺めていた山田。
 気にするつもりもないのに、何故か気がつくと視界に入っていた。神経に引っかかっていた、という方が正確だろうか。
 特別派手でもなければ、悪いことをするでもない。ただ表だって騒がれることなはくても、そのどこまでもナチュラルなマイペースっぷりは密かに、でも確実に注目を集めていた。
 が、噂だけは聞いていても関わることはなく、共通する友人がいるわけでもない。
 なのに一度間近で遭遇してしまったが最後、無意識に目が追うようになっていた。
 優等生を演じる退屈な日々に比べて、いっそ眩しいぐらいの存在。
 こういうことをしたかったのか。こんなつもりじゃなかったのか。
 わかんねぇよ─田中は山田の問いにそう答え、指を絡めて唇を重ねた。
 嗅ぎ慣れたボディソープの匂い。捲れたTシャツから覗く剥き出しの肌。雨音と雷鳴の中に時折混ざる、唾液が絡む微かな響き。舌と粘膜の生々しい熱さ。開かせた脚の間で、徐々に硬く濡れていく性器の手ざわり。
 あの山田が自分の下で息を乱す現実に、眩暈がするほどゾクゾクした。
 ただ、終わりを惜しむように時間をかけて山田を抱く間、どこか慣れて感じられる身体の印象が、窓の外の雨音と同じく神経に纏わり続けてもいた。
 煙草を吸う横顔を眺め、釈然としない気分を追い払うように田中は口を開いた。
「山田お前さぁ」
「うん」
「進路はどうするつもりなんだ?」
「はぁ? 何、急に」
 別に話題なんか何でもよかった。
 不明瞭な空気を取り繕うために何か喋ろうと思い、そろそろ受験を肌で感じる時期に差しかかっていたせいか、そんなネタが浮かんだだけだ。
「何ってこともねぇけど、そういう時期じゃん?」
「別にどーもしねぇよ、テキトーに就職するんじゃねぇ?」
「そうなのか」
「大学行くような頭の出来じゃねぇし、早く自分で稼ぎてぇし」
「ふーん。早く職に就くのも悪かねぇけど、なんかもったいないな」
 山田が唇に煙草を咥えて目を寄越した。
「もったいないって何が?」
「お前、結構何でも上手くやれんじゃん? 特に人間関係とか」
「人間関係って、野郎とこんなカンケーになったりすることか?」
「違うって。人に好かれやすいだろ、何だかんだ言って先生たちにも気に入られてるみてぇだし。それだけでも仕事すんのに有利なんだろうけどさ、せっかくなら学歴つけときゃ、もっと上を狙えるようになるかもしんねぇのにもったいねぇなって」
「マジで言ってんの? つーか俺ゼッテェ無理だし受験とか」
「んなのわかんねぇじゃん。これからでも遅くないから、頑張ってどっか潜り込んでみたらどうだよ」
「お前ほんと、ヘンなヤツだな」
 呆れたように言ったツラは相変わらず眠たげではあったが、これまで見た中で一番自然な笑みに見えた。
「なぁ田中」
 山田が言った。
「何だ?」
「忘れろよ、今日のことは」
「え?」
「お前が俺の何を気にしてんのかは知らねぇけど、今夜を最後にして、もう忘れちまえ。俺も忘れる」
「──山田、俺は」
「俺は気にされたくねぇし、したくもねぇんだ」
 田中の声を遮った山田は、煙を吐いて空き缶に灰を落とすと窓に視線を投げた。
「雨……まだ降ってんな」
 すぐには答えられなかった。が、喉元に閊える別のセリフを呑み下して、ようやく声を絞り出した。
「すげぇ降ってるよ」
「そうか」
 山田はポツリと相槌を打ち、しばらく無言で煙草を吸っていた。
 弱まる気配のない雨の音が、このまま永遠に降り続くんじゃないかって錯覚を起こさせた。
 
 
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