が、その夜は結局、新入社員の親睦会に出た。
 参加は自由だったが、確実に女子がいる方がいいじゃん、という山田のひとことで決定した。
 しかし、それにしても──
 田中はジョッキに口をつけながら、右隣にいる山田を眺めた。
 山田はここでも身構えることなく周囲の人間と接している。決して馴れ馴れしくはなく、適度に気の抜けた、極めてマイペースな自然体。たぶん高校時代も、こういうところが魅力のひとつだったんだろうとは思う。
 田中は煙草を消して、左隣の佐藤を押し遣った。
「便所」
 席を抜けてトイレに入ると、喧噪が少しだけ遠ざかった。
 用を足して手を洗い、何となくすぐ戻る気になれずに田中は鏡の前でぼんやりした。
 何だか、妙に疲れた。
 たぶんこれは、入社初日の気忙しさや緊張感などは関係なく──
「ウンコ?」
「!!」
 鏡の中、背後に山田の顔があった。
「やけに長ぇじゃん便所? 何、鏡の前でウットリしちゃってんの?」
「ウットリじゃねぇっての」
「女引っかける気合いでも入れてたんじゃねぇの」
 山田が笑って便器の前に立つ。このタイミングで先に戻るべきだった。なのに何故か、無意識に頭の中で話題を探してしまった。
「そういやさぁ、山田」
「うん」
「結局、大学行ったんだな」
「ん? うん、まぁ……何とかな」
 答える山田の表情は、どこか上の空に見えた。
 でも洗面台に近づいてきた時には普通のツラに戻っていて、手を洗いながら横目で田中を見て笑った。
「さて戻ろーぜぇ。あんまり長居してっと、クソしてたんだろって言われちまうからな」
 山田の言うとおり、席に戻ると近くにいたヤツが早速訊いてきた。
「長いトイレじゃん。さてはクソしてたな?」
 名前も知らないし、田中はまだ喋ったことがない相手だ。が、山田は既にひととおり周囲の人間と会話を済ませていたようだった。
「ほらな、言われた」
 振り返って笑い、
「どっちが長ぇウンコ出すか競ってたんだよ」
 煙草を咥えながら答えた山田に、別のヤツがツッコんでくる。
「やめろ、食ってる前でクソとか言うの」
「クソじゃねぇ、ウンコっつっただろ俺は」
「なんかそっちのがイヤなんだけど」
「男が細けぇこと言うなよ」
 右隣では山田がそんなバカを言い、左隣の佐藤はと言えば、
「へぇ、昨日別れたばっかなんだぁ」
「フラれたんだよ。慰めてくんねぇ?」
 咥え煙草で頬杖をついて向かい側の女子を口説いていた。
 その佐藤が急にこっちを見た。
「なぁ田中?」
「あ?」
「このあと飲み行かねぇか、彼女たちと」
 テーブルの対岸では、そこそこ上出来な女子が三人、にこやかに笑っていた。
「このあとって、大丈夫か? 明日、初仕事だけど」
「何とかなるって。なぁ、行けるなら山田も」
「何の話?」
 自分の名前を聞きつけて山田が身を乗り出してくる。肩が触れて密かに緊張した。
「これ終わったら飲みに行かない? って話なんだけどぉ」
 正面の三人のうち、一人が代表して魅力的な笑顔を見せた。
「今日?」
「そう。このあと」
「マジ? いーじゃん」
 山田は上機嫌で即答した。
「どっかいいとこ知ってる? このへんで」
 肩のそばに山田の声を聞きながら、田中は胸ポケットに入れたままのパッケージから一本抜き取り、咥えた。箱は卓上に出さない。山田の前に置かれているのと同じヤツだからだ。
 あの公園で山田にもらった煙草。その後、気づけば意識的に同じものを吸い続けてきた。今ここで銘柄を見て悟られてしまうのは、何だか気まずい。
 テーブルを挟んだ二次会の相談を聞き流しつつ田中が灰皿を取ろうとした時、山田が気をきかせたのか、ほぼ同時に手を出してきた。
 指先が重なって、一瞬、背中に電流でも流れたような気がした。
 咄嗟に手を引っ込めた田中の前に、山田が平然と灰皿を置いた。
「あ……悪ぃな」
「いーや」
 答える山田の声が、やけに遠くに聞こえる。指先に残る体温の残滓。
 脳裏を掠める遠い記憶に、田中は煙を吐きながらしばし意識を奪われた。
 絡めた指を、シーツに縫い止めた感触──
 公園で話した後も、それまでと変わらず学校で言葉を交わすことはなかった。
 なのにあの、土砂降りの雨が降っていた夜。
 
 
 両親不在のその夜、田中は日付が変わる頃になってから近所のコンビニに晩メシを買いに出た。
 正確に言えば晩メシというより夜食だ。塾から帰ってシャワーを浴びたところで空腹を覚え、時刻と天気の悪さにダラダラと躊躇った挙げ句、結局は肚を括ったというわけだった。
 家を出た時すでに本降りだった雨は、コンビニを出る頃にはビニ傘を叩き破らんばかりの勢いになっていた。ぐしょ濡れになったスニーカーの感触に、サンダルで来ればよかったと後悔しながらマンションのエントランスに入りかけた時、表の道路を向こうから歩いてくる制服姿が目にとまった。
 この雨の中、傘も差してないのがまず気になった。
 その上、こんな時間に制服でウロウロしてるのもどうかと思ったら、なんと自分の学校の制服だ。しかも。
「──山田?」
 公園での会話の後も、相変わらず関わることなく過ごしてきた存在。でも間違えようのないその顔は山田だった。
 こんなとこで何やってんだ? 思ったが、考えたところでわかるはずもない。
 前を通り過ぎる時に声をかけたが、雨音のせいで気づかないようだ。振り向きもせず去りかける後ろ姿に、田中はもう一度声を上げた。
「山田!」
 山田がこちらを見て眉を寄せた。
「……田中?」
「何してんだよ」
 田中は近づいて傘を差しかけた。が、既にズブ濡れの状態ではあまり意味がない。
「お前こそ何やってんの?」
「俺は今、コンビニ行ってきて……」
 田中の手元に目を落として山田が笑った。
「この雨の中、こんな時間に? やっぱヘンなヤツだな、お前」
「そっちだろ、ヘンなヤツは。何、傘も差さずに歩いてんだよ」
「ねぇモンは差せねーじゃん」
「いや、そりゃそうだけど……ていうか、こんな時間になんでまだ制服?」
「あぁ──ちょっと」
 僅かに硬くなった表情を見て、家で何かあって帰りたくないんだろうかと憶測し、田中はちょっと迷ってから言った。
「寄ってくか? ウチ。時間大丈夫なら」
「お前んち? 親とかいんだろ?」
「いねぇんだよ今日は。親戚の結婚式行ってて」
 親戚といっても田中まで出なきゃならないほどの付き合いではなく、両親だけが泊まりがけで出かけて行った。
 時間は問題ないという山田を家に招き入れ、玄関でタオルを渡す時、濡れて肌に貼りつくシャツから何となく目を逸らした。
「えっと、シャワー使うか?」
「あぁ……」
 山田は少し考える素振りを見せたあと、そうだな、と呟いた。
 
 
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