クシャミが出て目が覚めた。
 視界に飛び込んできた光景は自室のものではなく、自室じゃないけどそれなりに見慣れた隣の部屋だった。
 山田が朦朧とする頭で天井を見上げ、意識の隅で両腕の違和感について考えたとき、ワイシャツにネクタイ姿の小島が現れた。
「起きたんですか、山田さん」
「お前、まだいたのかよ」
「まだ時間ありますから」
「つーかテメェ、マジでいい加減ほどけよ腕。つーか会社行けねぇし、これじゃ」
「行かなくていいですよ」
「はぁ?」
「今日は休んでもらいます」
 山田は、しばし無言で後輩を眺めた。
 休んでもらいます? 何言ってんだコイツ?
 そりゃ、仕事なんか行くより家でダラダラしてたいのは山々だ。が、そうも言ってられないのがリーマンってヤツだし、自分の休みは自分で決めるし、後輩に指図なんかされたくない。
 ──つーか、待てよ?
 山田は小島の襟元からブラ下がるネクタイを凝視した。
 見憶えがある。山田のネクタイだ。そういえばコイツのネクタイは山田の手首と佐藤のベッドを繋いでやがる。
「お前な、俺の貞操を奪った上にネクタイまで奪って、さらに有休まで奪おうとかありえねぇから」
 すると、鏡の前でネクタイを整えていた小島が振り返って笑顔を見せた。
「山田さんに貞操なんてあったんですか?」
「はぁ? フザけんな」
「休暇は、可愛い後輩の気遣いですよ。昨夜の疲れがまだ抜けてないでしょう? 今日はそのまま一日、大人しく寝ててください。課長には俺から適当に言っときますから、ご心配なく」
「は? そのままってテメェ……コレ外せよ!」
 喚く先輩を甘ったるいツラで見つめてから、後輩は軽く唇を重ねて微笑んだ。
「そろそろ行きますね、俺」
「さっさと出てけ! つーか外してけってのマジでっ!」
「お断りします」
 素っ気なく答えて玄関に向かう小島。
「おい待てよ、便所行きたくなったらどーすんだよ!?」
「大丈夫ですよ。ゆうべ酔っ払って上からも下からも全部出したあと、俺の精液以外摂取してませんからね」
 そう。確かに上も下も空にしたあと、それこそ上からも下からも飲まされた。
「可愛かったですよ、俺のをしゃぶる山田さん。嫌がってるわりに、すっごく上手だったし。佐藤さんとの練習の成果、ちゃんと発揮できましたね」
「してねぇし、ンな練習っ!」
「行ってきます、いい子にしててくださいね」
 山田の罵詈雑言を背に、小島はアパートを出た。
 清々しい朝の通勤路。晴れ渡った空も、馴染みのない風景をより一層新鮮なものにしてくれる。
 駅に向かう途中、小島の手の中で着信音が鳴りだした。山田の携帯電話だ。それを小島が持ち出したことに、山田はいつ気づくだろうか?
 画面を見ると、まだ大阪にいるはずの男の名前があった。
 単なるモーニングコールか、それとも昨夜の電話が気になって出勤前にかけてみたのか。
 ──どっちにしたって仲のいいことで。
 内心で呟いて終話ボタンを押し、ついでに電源も切ってポケットに押し込んだ。
 が、会社や同僚に確認でもされたら、ちょっと面倒なことになるかもしれない。山田の欠勤を知った佐藤が、誰かに様子を見に行かせたりしないとも限らないし。
 念のため昼間、外回りの途中で寄ってみようか──
 ベッドに繋いだ先輩を、勤務時間中に弄んでやるのも楽しそうだ。
 
 
 その頃、山田はボロアパートの一室で孤独に唸っていた。
「くっ──う、んンッ」
 別に一人で気持ちよくなってるわけじゃない。
 目指すは部屋の隅に置かれた小型の収納ケース。半透明の引き出しの中にハサミらしきシルエットを発見したのだ。
 アレさえあればネクタイを切って自由を取り戻すことができる。
 が、ベッドから身体を下ろして必死に足先を近づけようとするのに、これがなかなか届かない。
「ぐぁ、クソ」
 一旦諦めて溜息をついた時、妙案が浮かんだ。そうだ。ベッドごと動けばいいんじゃねぇか?
 中腰で床に立ち、手首と繋がるパイプを掴んでベッドをズラしてみたら、スゴイ音が響いた。しかし、そんなことに怯んではいられない。
 なんたって、ひと晩さんざん組んずほぐれつしたベッドのシーツ類は退室後のラブホテルもかくやという有り様だ。
 週明けに帰ると思ってた同居人は、深夜に小島からもたらされた情報によれば今夜戻って来るらしい。それまでにベッドのコンディションを整えるためには、一刻も早く洗濯機を回すか、もしくはコインランドリーに駆け込む必要がある。
 もちろん、出張の間に寝具一式がサッパリ爽やかになってたら、それはそれで怪しいかもしれない。でもこの際、そんな危惧は二の次だ。
 というわけで、何がなんでも今すぐベッドから解放されなきゃならないってのに、山田の思いも虚しくベッドはある程度斜めになるとパソコンデスクに当たって動かなくなってしまった。
 ──こんなとこに机なんか置くな!!
 怒ったって始まらないのはわかってる。こうなったらいっそ、ベッドの端を持ち上げて斜めにしてみてはどうだろうか。
 山田は、収納ケースとパソコンデスクとその上に載った諸々とベッドを順番に見た。どう見ても危険な気がした。
「くっそう、とにかく一服……って、ねぇし! 煙草ぐらい近くに置いてけっつーの、あの野郎っ!」
 今さらながら、煙草も吸えないことに気づいた山田だった。
 しかし、その事実に至った途端、腹の底からモチベーションが湧き上がってきた。
 冗談じゃねぇ、やっぱり何がなんでもあのハサミを取る!!
 そんでこの手を自由にして一服する!!
 足でハサミが取れたところで、それをどうやって縛られた手に持ち替えるのかは、まだ考えてない。考えてはいないけど、ともかく収納ケースに近づこうと山田は懸命に身体を伸ばした。
 きつく巻きついて結ばれたネクタイが手首を締め上げるが、そんなことはもはや気にならなかった。
「もう少しじゃん!? 頑張れオレ……!」
 自らを励ましつつ、山田はブルブル震えながら足先を伸ばす。
 もう少しで届きそうな気がする。いや届くに決まってる。てか絶対取ってみせる。
 ホラ、もう少しだろ?
 もう少し……
 もう少し──でっ
 
 
【END】

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