そのまま数秒経過した。
「その沈黙は肯定ですか?」
「はぁコーテイ?」
 訊き返した山田が、何かを思い出したように小島を見た。
「そーだ、前から思ってたんだけどさぁ、ユンケルってなんでコーテイ液っつーんだ?」
 今度は小島が少し黙った。
 が、ややあって小さな溜め息とともに口を開いた。
「それはね山田さん、黄帝っていうのは中国医学の祖とされていて……」
「あ、難しい話はいまパスな。俺がどういう状態かわかってんのかよ!」
「山田さんが訊いたんじゃないですか」
「お前がコーテイとか言うからだろ」
 それでユンケルに繋がるのは目の前の先輩ぐらいだろう。小島は思い、ふと言った。
「ユンケルは佐藤製薬ですね」
「それが何だ!!」
 間髪入れず目を三角にした山田の形相を見て、小島はそれ以上の言及を速やかに避ける。そして一連の会話なんかなかった素振りで、耳に唇で触れて囁いた。
「で、どういう状態なんですか? 山田さん」
「おっ前、自分で握っててわかんねーとかトボけたこと言うんじゃねぇぞ変態がっ……」
「はいはい待たせてすみませんね。でも焦らされるのも好きでしょう?」
「は? ヘンタイの仲間入りさせんな」
「俺は山田さんが好きですよ?」
「ソレ関係なくね……ン、あ」
 
 
 しばしベッドで大人劇場を繰り広げた先輩と後輩は、しまいには揃ってグッタリ布団に潜り込んだ。
「あーマジ眠ぃ、クソ、俺の睡眠時間返せよテメェ」
「山田さんが欲しがったんじゃないですか」
「はぁ? フザけんなよ、お前が襲ってきたんだろ変態っ」
「はいはい、そうでしたね」
「マジもうゼッテェ起こすなよこの野郎」
「はいはい、わかりました」
 答えた小島に背を向け、山田はすぐに静かになった。
 小島は肘をついて手のひらで頬を支え、しばらく山田の後頭部を眺めていた。
「あぁ、そっか」
 ふと、つむじの向こうから声がした。
「何ですか?」
「お前、煙草吸わねぇんだよなぁ」
「──」
 小島が黙っていると、そのまま再び静寂が訪れた。
 が、今度こそ寝たのかと思いきや、山田はむくりと起き上がって「煙草」と呟いた。
 部屋の主は吸わないが、ここには山田のための灰皿がある。
 サイドテーブルに手を伸ばした小島が山田の煙草と灰皿を引き寄せ、差し出した。灰皿の底には、すでに吸い殻がひとつ転がっていた。
「灰、こぼさないでくださいね」
「ベッドで煙草を吸わないで、とか言いそうなくせに言わねぇよな、お前」
「沢たまきですか?」
「誰ソレ」
「知らずに言ったんですか?」
「何の話?」
「ベッドで煙草は基本、嫌ですね」
 昭和歌謡の話は速やかに終わった。
「どんなに気をつけても落ちるものですから灰って。山田さんだけですよ、許すのは」
「あっそう、悪ィな」
 それだけ言うと、山田は煙草に火を点けた。
 煙を吐く眠たげな横顔を、しばし小島が眺めた。
「山田さん」
「何だよ」
「昼間、田中さんが言ってたこと、今日一日ずっと気にしてたでしょう」
「は? 今日って、はじまったばっかだぜ?」
 時刻は午前一時を回っている。
「生活のサイクルで言う、今日です。正確に言えば昨日の昼間」
「田中が何言ったっけ」
「佐藤さんが大阪出張のたびに会ってた女がいるっていう、例の話です」
 昼間、喫煙所で交わした会話だ。
 田中と鈴木と山田の三人で煙草を吸ってたら佐藤の話になり、田中がふと思い出したようにそんなネタを持ち出した。
 
 
「そういやアイツさぁ大阪出張ん時、いっつも決まった女がいたんだよなぁ」
 決まった女? と鈴木が応じた。
「だから、一緒にメシ食って寝るような女? そん時だけの関係ってヤツで」
「それがいつも同じ相手ってことですか?」
「そう」
「へぇ、初耳っスねぇ」
「わざわざ言うことでもねぇしな。俺はほら、あっちに出張行った時に小耳に挟んだだけで」
「あぁ俺たち出張ないですもんね、山田さん」
 鈴木が言って目を遣ると、明後日の方を見ていた山田が「はぁ? 何?」と振り向いた。
 鈴木は取り合わないことにして田中に向き直った。
「隅に置けませんね佐藤さんも。こっちじゃいろんな相手をフラフラ渡り歩いてんのに」
「まぁ、最近は渡り歩いてるっつーほど盛んじゃなかった気はするけどなぁ」
「許せねぇな!」
 突然声を上げた山田を、田中と鈴木が同時に見た。
「コソコソいい思いしやがってよー、なぁオイ! つーか会社のカネでオンナに会いに行ってるようなモンじゃねぇかソレ!?」
「いやそりゃ、会うのは仕事終わってからだろうけど」
「そりゃあ仕事中にホテルにしけ込んだりはしないでしょうけどね」
 笑顔の鈴木を山田が見て、かたわらで田中が山田を見た。
 そこで小島が接待の予定を告げに現れ、会話は中断した。
 
 
「あーお前、聞いてたのかよアレ」
 山田が頬杖をついて煙を吐き、小島のほうを見ないまま言った。
「聞こえたんです。田中さんも意地が悪いですよね」
 小島が笑ったが山田は反応しない。
「でも意地悪したくなる気持ちはわかります」
「意味わかんねぇし、つーか田中はどっちかっつーとM属性だと思うけどな俺的には、お前と違って」
「俺も結構、Mですよ? なかなか報われない恋に一生懸命溺れてます」
「溺れ死ね変態」
「山田さんが死ねって言うなら」
「俺に生死を委ねんな、つーか報われないってわかってんならやめりゃいいじゃんよ」
「M属性だからやめられないんですよ。それより山田さん、接待の間ずっと時間を気にしてたのって、シャツのアイロンのためなんかじゃなくて新幹線の便だったんじゃないですか?」
 山田が動きをとめて鼻から煙を吐き、一拍置いて小島を見た。
「あァ?」
「いまから東京駅に行けば今夜佐藤さんに会える、とか考えてたんでしょう? ずっと。あの話を聞いちゃったものだから」
「ちょ、何言ってんの? 大阪行く新幹線なんかお前、九時台までしかねぇんだぜ?」
「詳しいですね」
「──」
「ていうか、あぁだから、九時以降はあんまり時計を見なくなったんですか」
「だからさぁ、なに勝手に話作ってんの?」
「作ってません、事実です。それまでソワソワしてたのに九時過ぎから急に大人しくなって。もう間に合わない時間になったから諦めがついたんですね」
「お前の話は全然わかんねぇし、だいたい月曜じゃねぇか今日、まだ週はじまって一日目だぞ、普通に考えて大阪なんか行かねぇだろ」
「別に否定してもいいですよ。どっちにしたって俺はつけ込むだけですから、山田さんの寂しさに」
「──」
 山田は黙って煙草を消し、小島に灰皿を押しつけた。小島は受け取ったそれをサイドボードに戻した。
「寂しくなんかない、とか言わないんですか?」
「いちいち言わなくてもわかってんだろ、そうやって」
「通じ合ってますね、俺たち」
「マジで馬鹿だろお前」
 寝返りを打って再び背を向けた山田に、小島が布団の上から腕を回した。重いとかウゼェとか文句が出るだろうと思ったが、予想に反して抵抗はなく、やがて寝息が聞こえはじめた。
「山田さん、寝たんですか?」
 答えはない。
 が、狸寝入りだろうが本当に眠っていようが同じことだと思い直し、山田を抱いたまま目を閉じた。
 間もなく、小島も滑り落ちるように寝入った。
 
 
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