千葉海志の未知なる敵というのは、実は自分だったのか。
 中島深幸は拘束されて逃げることもままならない身体で地ベタに伏せ、煩悶していた。
 暗くて寒い。そして重い。振り返って見ることができないから、自分をそんな目に遭わせてるのが千葉だという根拠はない。なのに中島にはわかる。これはさっき一緒に焼肉を食って酒を飲んだばかりの千葉だ──
 確信したところで目が覚めた。
 暗い部屋の床の上で、中島は布団もかけず俯せに転がっていた。
 そして中島に半ばしがみつくような形で、ベッドに寝ていたはずの千葉が乗っていた。それこそ視認するまでもなく千葉以外の人間だとは考えにくい。項のすぐそばでイビキが聞こえる。
「重い」
 呟いて体勢を変えようとした時、尻に当たる千葉のナニが硬くなりかけてるのに気づいた。後ろ手に手探りで触ると、呻き声とともに寝言が聞こえてきた。
「うーん、モモコぉ……」
 誰と間違えてるんだか。先月別れた彼女はそんな名前じゃなかったはずだ。
 中島は身体をズラして千葉の下から抜けだした。借りた布団は足もとで団子になっていた。それを引き寄せてから、床にへばりついている千葉をどうしようかと考える。ベッドに戻してやるべきだろうか。
 でも、これまでも何度か酔い潰れた千葉を動かしたことのある中島は、その身体が中背痩躯ながらも案外重いことを知っていた。筋肉を鍛えてるせいだ。こっちだって眠いのに、こんな夜中にそんな重労働を強いられるのは理不尽な気がする。仕方がないから千葉は床に寝かせたまま、この布団をかけて自分がベッドを拝借するか。
 迷った時、布団の下から出てきたものに中島の目がとまった。ニューアイテムの足錠だった。
「──」
 これで千葉の足を拘束してみようか。
 チラリと湧いた出来心に、さっき見た夢の感触が重なった。拘束されて押さえつけられる悪夢。
 もちろん現実の千葉に悪気はないだろう。が、夢の息苦しさのお返しとばかりに足錠を拾い上げた。
 輪っかの片方を右足首に、残る片方をベッドの脚に嵌める。寝返りを打とうとした千葉が鬱陶しげに唸った。思いついて股間に触ってみると、まだ硬い。そのまま手のひらを動かすと息を呑んで吐きだす気配が伝わってきた。
「ん、待てって……モモコ……」
 だからモモコって誰だよ?
 笑いが漏れそうになって危うく噛み殺す。過ぎたことには興味がないとか言いつつも、昔の女には未練があるんじゃないか。
 が、あんまりイジりすぎて引き下がれない状態までいっては気の毒だから、早々にやめて手を離した。
 床に置きっぱなしの千葉の煙草を1本抜いて咥え、火を点ける。普段1ミリを吸っている中島にタール10ミリはかなりキツイ。
 ごく平凡でスタンダードなナリをしていながら、騙し討ち的に強烈なその味わいは、まるで千葉そのもののようでもあった。
 
 
 配属初日、マーケティング部に到着するなり目にした光景は、磯野波平みたいな上司に向かってハゲジジイと喚く寝グセだらけの後ろ頭だった。その無造作ヘアはどう見てもセットじゃなく寝グセだろうと考えた次の瞬間、波平の雷が落ちていた。で、寝グセがうるさそうにそっぽを向いたはずみで中島と目が合った。同時に中島に気づいた波平が、寝グセ頭に向かってさらに怒鳴った。
「お前は今日1日、新入りの面倒でもみてろ!!」
 何だか、とばっちりで罰ゲームの駒にでもされたような気分だった。
 それでも1日付き合ってみると、新入りの面倒を任せるのに悪くない人材だと感じた。きっとハゲジジイ・波平も最初からそのつもりだったんだろう。
 千葉は親切とは言いがたかったが、教えることを面倒クサがらないし先輩ヅラもしなかった。他人のプライベートに最低限の興味は示しても必要以上に立ち入らない。昼メシを食いながら、中島が実は同級生で1学年遅れていることがわかった時も、千葉は「ふーん」としか言わなかった。浪人? とか帰国子女? とか、そんなことすら訊かなかった。
 昔のことはどうだっていい。
 似たようなことを言いながらも離れていった口先ばかりの人間は多い。
 でも千葉だけは本当の本当にどうでもよさそうだった。少なくともそう感じる。千葉の警戒対象は目下、正体も存在も不明の『未知なる敵』でしかないらしい。
 が。
 それならそれで、むしろ気にしてほしくなってくるから人間ってのは不思議なものだ。
 中島は10ミリの煙を吐き出し、床に転がっている千葉を眺めた。
 まだ夢の中にはモモコがいるんだろうか。昔の女のことは夢にまで見て勃起するくせに、目の前にいる後輩の過去には何の興味もないと言う。それどころか、いるかどうかもわからない未知の敵にすら中島の存在は負けてる。
「──」
 何だか納得いかない気分になってきた。
 中島は煙草を消すと、千葉に布団をかけてベッドに潜り込んだ。どことなく嗅ぎおぼえのある千葉の匂いに包まれる。するとなぜか自分までナニが勃ちそうな気がしてきてゴソゴソと寝返りを打った。
 睡魔が忍び寄ってくるのを感じながら、ふと思った。どうしたら千葉がもっと気にしてくれるんだろうか。
 いまの時点で把握できてる千葉の興味の対象は『モモコ』と『未知なる敵』。前者にはなれない。中島は女じゃないし、仮に女であっても千葉の言うとおり昔には戻れないんだから、過去のモモコとやらに取って代わることは不可能だ。じゃあ後者か。
 ──未知なる敵って、どうすればなれるんだろう?
 考えてるうち、いつの間にか寝入っていた。
 そして明け方、便所に行こうとして足錠に阻まれた千葉の怒りの鉄拳で叩き起こされた。
 
 
 翌々週の木曜の夕方、池尾は中島からの電話を受けた。コンペの結果を知らせる連絡で、池尾のチームは初参加ながら見事勝ち取った。
 が、その達成感も、中島を飲みに連れ出す話がまとまったことに比べたら些末なモノに過ぎなかった。
 仕事の話がひと段落したあと「どうですか今度、よろしければ一杯」なんて淀みなく言えた自分に喝采を送りたい。
 果たして中島は、あぁいいですねと軽く答えて寄越した。
 それから巧みに年齢の話に持ち込み、中島が同じ年の生まれであることを確認した。ついでに千葉海志も同じだという情報まで入手したが、そっちはあんまり関係ない。関係ないが、中島が「じゃあ同級生3人でどうですか」なんて言い出しはしないかと、ちょっと気を揉んだ。
 別に千葉が一緒でも差し支えはない。差し支えはないが、会話の内容がある程度限定されるかもしれない。
 とはいえ別に、何を話すか決めてるワケでもない。電話じゃなく面と向かえば「失礼ですが、小6の時に同級生を椅子で殴り倒したことはありますか」なんて訊けるのかといえば、そうとも思えないし。
 しかし中島本人によって、無駄な煩悶はあっさり払拭されることになる。
「そうだ、明日なんかどうですか? 池尾さんのご都合さえよろしければ」
「え、明日ですか?」
「急でしょうか」
「いえ俺、いや私は構いませんが、えっと……千葉さんもご一緒でしょうか」
 気にするあまり自分から水を向けてしまった池尾に、中島は答えた。
「いえ、千葉はちょっと、明日は難しいと思います」
 ということは最初から、自分1人で誘いに乗るつもりだったのか。
 それはそれで池尾の警戒心をくすぐったが、池尾が例の事件当時のクラスメイトだということに中島が気づいてる可能性は極めて低い。池尾の名前なんか知る間もなかっただろうし、卒業アルバムだって持ってないわけだから。
「千葉が同席した方がよろしいんでしたら、別の日でも構いませんよ?」
「あ、じゃあ、千葉さんとはまた改めてご一緒するとして、とりあえず明日は2人でいかがですか」
 どういう天の采配か、それで話が決まった。池尾は電話を切ると糸井にLINEを入れた。
『明日、中島と飲みに行くことになった! うまくいったらそっちに連れてく』
 返事が来たのは3時間後だった。
『無事こっちまで辿り着けたらな』
『椅子で殴られないように気をつけるよ』
 帰宅途中だった池尾は電車の中からそう返したが、糸井からの返信はもう来なかった。
 
 
 結局、飲むだけじゃなく食事もすることになったため、居酒屋ダイニング的な店を選んで中島深幸と落ち合った。
 予約時間の10分前に池尾が到着すると、すでに中島がいた。
 お待たせして恐縮です、いえいえ早く着いてしまいまして、などと挨拶を交わして掘り炬燵スタイルの半個室で向かい合わせに座り、案内してきたオネエチャンに生を2つ頼んだ。
 それから、どうもこのたびの件では……とコンペの結果について礼を言いかけたら、すかさず「堅苦しいお話は抜きにしましょう」と中島に遮られた。
「よかったら今日は仕事の関係というよりも、同年代の友人としてお付き合いいただけませんか」
 何だか、ハリウッド映画にでも出てくるビジネスマンあたりが言いそうなセリフだ。
 池尾も負けじとハリウッド映画ばりの笑顔で快諾し、そこへやってきた生のジョッキを手に食べるものをオーダーして乾杯する。
 こうして中島深幸との食事は和やかにスタートした。
 そもそも同じ年だから共通の話題も多い。さらに酒量の増加とともに、場はじわじわとフランクな空気へとこなれていった。
 ここ2週間ほどの仕事のやり取りで受けた印象どおり、中島は年齢よりも少し落ち着いていて、どことなく洗練された物腰で如才なく、かといって気取ったところもない、いわゆる『好青年』だった。同級生に向かって無慈悲に椅子を振り下ろした少年の面影は、とりあえずどこにも見られない。
 面影といっても、少年・中島深幸の記憶はないに等しいからイメージに過ぎないワケだけど。それでも目の前にいる人畜無害そうな優男のリーマンが会議室のパイプ椅子を振り回してる姿を想像しようと思ったってソイツは無茶な相談だった。
 その中島がこんなことを言い出したのは、そろそろ河岸を変えようかと考えはじめる頃合いだった。
「池尾さん。未知なる敵って言ったら、何が考えられますか?」
「は?」
 池尾は訊き返し、煙草を取り出しかけていた手をとめた。いくら何でも中島にタカるわけにはいかないから今日は自前の煙草だ。銘柄にこだわりはないから、自販機の前でちょっと迷って糸井と同じものを選んだ。
「未知なる敵……ですか?」
「そうです」
 サラリと応じた中島深幸を池尾はじっと見返し、さらに訊ねた。
「えっとそれは、映画のお話か何かでしょうか」
「いえ、ただ参考までに、その言葉から連想されるものを伺ってみようと思いまして」
 何の参考だっていうのか。思ったが疑問は声にならなかった。
 それよりも一瞬──ほんの一瞬、中島のメガネがキラリと光った気がしたのは気のせいだろうか。先入観による錯覚か何かだろうか。しかし同時に、目の前の優男リーマンが会議室のパイプ椅子を振り上げてる姿が脳裏に浮かび、池尾は思わず硬直していた。
「池尾さん?」
「あぁ、いえ、そうですね。まぁその、単純に思いつくのは、あの……宇宙人とかでしょうか?」
「はぁ、宇宙人ですか」
 中島は笑い飛ばすでもなく、指先で煙草のパッケージを探って1本抜き出した。
「すみません、発想が貧困で」
「いえ、そんなことありません。そうだなぁ、宇宙人ですか」
「いきなり現れて地球人を捕獲してエサにするようなですね」
「宇宙戦争ですか?」
「観ました? アレ」
 それからしばし、件の映画がいかにツッコミどころ満載かについて話が盛り上がり、一周して戻った。
「でも未知なる敵って言ったら、どっちかっていうと攫われて人体実験とかされて、記憶を消されて戻される系の方がイメージ合いますよね。エサにされる系よりそっちの方が、正体不明の何かが潜んでる感じで」
 池尾が言うと、中島が灰皿に灰を落としながら感心したような目を寄越した。
「そんなカテゴリ分けがあるんですか?」
「いえ、個人的なカテゴライズですが」
「なるほど。でも人体実験だの記憶を消したりっていうのは、一般人にはちょっと難しいですよね」
「まぁそりゃ宇宙人のやることですから。一般人にできるようなことだったら、わざわざ遠くからやって来た宇宙人がやらないんじゃないかと」
 なるほど、とまた中島が言った。
「じゃあ一般人なら何をした場合、未知なる敵になり得ると思いますか?」
「中島さん、未知なる敵になりたいんですか?」
「いえ参考までに」
 だから何の参考なんだと思ったが、疑問はやはり声にならなかった。かわりに池尾は「うーん」と目を閉じて真面目に考えるフリをした。未知なる敵──姿の見えない敵……? 闇に見え隠れする敵……?サッと振り向いた瞬間もうそこにはいないけど、でもたしかに気配を感じるような──敵?
「ストーカーなんかどうですか」
「ストーカーですか」
「そう、しつこく付きまとう系じゃなくて、姿を現さない系の」
「そんなカテゴリ分けがあるんですか、ストーカーに」
「さぁ、これも個人的なカテゴライズでしょうか」
 池尾は言って、視界の端に中島の気配を窺いながら皿にひと切れ残っていた和牛のタタキを箸先で摘み上げた。
 食うつもりがないから残ってたんだろうけど、ひとこと食っていいかと確認した方が良かっただろうか。口に入れてモグモグしながら考えて、ゴマかすようにどうでもいいコメントを追加した。
「あぁでも、未知の敵っていうより見えざる敵って感じでしょうかね、それだと」
「あぁ、なるほど」
「正体がわからないって点では、どちらも同じかもしれませんが。何だかわからないですけど、お役に立てなくてすみません」
「いえ、とても参考になりました。ありがとうございます」
 何がどう、とても参考になったんだろう。
 訊いてみたくて恐ろしくウズウズしたが、どうにか耐えた。ここは掘り炬燵だからなんて安心してちゃいけない。下手な質問をしてカウンタ席のスツールでも引き摺ってこられたら、冗談じゃなく糸井の店に連れて行くどころじゃなくなる。
 ──そうだ。糸井の店だ。
 どことなく思案げな中島深幸の表情を窺い、池尾は慎重に口を開いた。
「あの、中島さん」
「はい」
「実は是非一度お連れしてみたい店があるんですが、もしもお時間が大丈夫なようでしたら、よろしければお付き合いくださいませんか? あの、女の子が接客するような店じゃないんですけど、俺の行きつけの店でして」
 なるべく自然な口調を心がけて言うと、中島が灰皿で煙草を消しながらメガネの奥から探るような目を向けてきた。
「先にひとつ確認しますけど」
「え、はぁ」
「女の子が接客するような店じゃないからって、まさか男の子が接客するような店じゃないですよね? そこは」
 
 
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