千葉海志は知る由もなかったが、その電話の際、ナカジマミユキが不在だったことに池尾歩は正直ホッとしていた。
 仕事に関する問い合わせは、先日会った3人のうちの誰でも良かった。だから敢えて中島を呼び出してもらおうかと思い、しかし決意が固まらず、3枚の名刺を裏返してシャッフルして1枚抜いたら『千葉海志』と印字してあったから、運命に従って千葉という男宛てに電話した。でも用件が済んだ時、ほんの気の迷いで「中島さんはいらっしゃいますか?」などと思わず口走ってしまった。
 本当に中島本人が出たら何を言うつもりだったのかは自分でもわからない。何しろ用事は千葉相手に済んでいた。
 だからって「失礼ですが、小6の時に同級生を椅子で殴り倒したことはありますか」なんて質問するワケにもいかない。
 夜、aiに行ってその話をすると、糸井は「残念だったな」と鼻で笑った。
 その日は珍しく客がいた。それも2組もだ。ひとつしかないテーブル席にOLが3人、カウンタの端に2人連れの男と女。
「どうするつもりだったんだよ、中島が出たら」
「だから、わかんないけど」
「あ、飲みにでも誘えよ。あっちが客なんだろ? 接待とかすりゃいいじゃん。そんで連れて来い、ここに」
「えー、ここに?」
「文句あんのか」
「別にないけどさぁ、でも接待っつってもなぁ」
 先方はどうだか知らないけど、池尾の会社では表向き、接待はするもされるも原則禁止となっていた。
 が、だからって誰もが清廉潔白なはずはなく、むしろ「一切経験のない清らかな身体です」なんて言える営業マンが果たしているかどうか。しかしいずれにしても自腹を切るか、あの手この手で策を弄して伝票を切るかの2つにひとつだ。
 おまけに2軒目として連れて来るにしたって、ここは別にケチをつけるような店でもない反面、取り立ててどうということもなく、付き合いの浅い顧客を誘い込む理由づけが難しい。
 余談だが屋号の『ai』は女の名前でも何でもない。面倒くさがりの糸井が自分の頭文字『I』を屋号にしようとして、しかしさすがに線1本ってのはどうなんだって話になり、結局読みはそのままに『a』を足しただけのことだ。糸井がそう決めた時、池尾もその場にいた。カラオケボックスの1室だった。2人でメシ食って飲んだ帰り、通りすがりに入ったカラオケ屋で、その晩は結局オールになった。
 いっぺん死に損なってからマトモになったとはいえ、それまでがあまりのヒドさだったから積極的に仲良くしようなんて気にはなれない相手だったのに、どうしてそんな仲になってたのか。そもそも、どうしてトモダチになんかなってしまったのか。
 理由は単純、いつでも出席番号が前後してたからだ。
 大抵は池尾が1番か2番で糸井が2番か3番。中学時代は1年と3年が同じクラス、なりゆきで同じ高校に進学したら今度は3年間一緒だった。さらに大学も同じところに進んだが、糸井はバイトで始めた飲み屋の仕事にのめり込んでいって気がついたら中退してた。
 そして現在に至るまでの間に、糸井はずいぶん変わった。事件直後はそれでもまだ本来の人格をチラチラ伺わせてたものだけど、いまとなってはごく普通の『あんまりヤル気のないバーの店主』にしか見えない。
 テーブル席のオーダーをこなして戻ってきた糸井を眺め、池尾はしみじみ呟いた。
「変わるモンだよな、人って」
「いきなり何だ」
「いやいや、えっと、中島もさぁ、あんな事件起こしたヤツがあんな無害そうなメガネくんになってても不思議はないよな、そりゃ。人って変わるモンなんだから」
「中島が無害ってのはかなり笑えるけど、それ以前にアイツのこと憶えてねぇじゃん? 俺ら」
 その点について、彼らは時折思い出したように確認し合ってきた。
「メガネじゃなかったのはたしかだと思うんだけど」
「少なくともメガネじゃなかったな」
「まぁでも時間も随分経ってるし、そもそもあんときだって2日しかいなかったんだもんなぁ」
 目の前のグラスが勝手に新しいハートランドと交換されるのを見ながら池尾は言った。
「ていうか糸井が事件起こしたのが午前中だったから、実質2日もいなかったよな」
「おい、事件起こしたのは俺じゃねぇ、中島だろうが」
「原因作ったのはお前だろ?」
「お前はつくづく俺の古傷を抉るのが好きなヤツだな」
「俺、そんなS属性じゃないよ」
 言ってグラスを傾ける池尾の前で糸井が肩を竦めて煙草を抜いた。が、端に座ってた2人連れに呼ばれ、煙草を置いて池尾の前を離れた。
 糸井は客2人と親しげに会話を交わし、会計を済ませて入口まで見送ってから戻ってきた。
「常連?」
「いまの2人? まぁそんなしょっちゅうじゃねぇけど、時々来るぐらいかな」
「見たことないなぁ」
「お前が知らねぇことはいっぱいあるんだよ」
 小馬鹿にしたように糸井は言い、煙草を咥え直す。
「あっそう、でもお前が知らなくて俺が知ってることだってあんだからな」
「たとえば?」
「現在の中島深幸とか」
「まだ本人かどうか確認できてねぇじゃん。それに1回会ったってだけのことだろうが、顔と勤務先以外に何を知ってるっつーんだよ」
「そうだなぁ、えっと……同僚と上司の名前も知ってる」
「それは中島の属性とは言わねぇだろ」
「上司が波平っぽいんだぜ」
「は?」
「髪型が。超似てる。あと、その同僚が、あ、今日電話した相手な。ソイツの名前が、えっと」
 名刺入れを出して確認する。
「チバカイシ。字が、千葉の海を志す。千葉は関係ないけど海だし、サザエさんっぽくねぇ? そんで中島くんだし。メガネだし中島。サザエさんファミリーだよ、この3人」
「中島くんはファミリーじゃねぇだろ。海に至ってはサザエさんワールドのバックグラウンドでしかねぇ。ていうかお前は何だ、敢えて俺にマイルドなイメージを植えつけようとしてんのか、中島について」
「そういうつもりはないけど」
「だったら無意味な世界観を持ち出すなよ」
「ていうか千葉で海を志すとか、房総出身とかかな。親父が漁師とか」
「知るか。本人に聞いてみろ」
「この名前もさぁ、チ・バ・カ・イ・シ……チ、バカ、とか言って子供の頃にイジメられてそうだよな、糸井みたいなヤツに」
「お前といるとホント、人間的に鍛えられるよ池尾」
 糸井が呆れたように言った。
 
 
 焼肉屋を出た中島と千葉は、そのまま千葉の部屋に向かった。中島にしてみれば、さっき1往復した道のりをさらに折り返すことになる。それを言うと千葉は反省の色もなく答えた。
「運動不足なんだからちょうどいいじゃねぇか」
「別に不足してないけど」
「通勤以外に動いてるか? 営業みてぇに出歩くワケでもねぇし、ほかに何かやってんのかよ」
「何もしてないけど、通勤でじゅうぶん消耗してるよ」
「体力つけろよ、もっと」
「いや、生きていける体力があればいいから」
 途中で24時間営業のスーパーに立ち寄って、アルコールを中心にいろいろ仕入れた。
「いいよなぁ、うちの近所にも24時間のスーパーとかあったらいいのになぁ」
「中島んちは目の前にコンビニあんじゃん」
「コンビニとスーパーはやっぱ違うよ。夜中に魚とか買いに行きたくなってもコンビニじゃ役に立たないし」
「夜中に魚買う必要がどこにあんだよ」
「急に食べたくなることってあるじゃん?」
「魚をかぁ? ねぇな。肉なら食ってもいいけど」
「肉食だよねぇ、海志くん」
 肉食の千葉海志が住む部屋は、今年で築12年になるマンションの1階だった。
 玄関側の外廊下は昼間でも薄暗いが、中に入るとそこそこ陽当たりのいいワンルーム。玄関のドアを開けるとそこはもうダイニングで、開けっ放しの奥の部屋の中が丸見えだ。ベッドの脇にスタンドからブラ下がってるサンドバッグが見える。蹴りの練習用だが、それだけじゃない。テコンドーとは関係なく、その部屋には千葉の趣味のアイテムがゴロゴロしてるのを中島は知っていた。
 特殊警棒、催涙スプレー、スタンガン、ナックル、手錠、防刃Tシャツや防刃パーカー、防弾ヘルメット、盗聴盗撮発見器、その他もろもろの護身・防犯グッズ。赤外線センサースイッチなんか繋げてる家電もあるし、前回来た時にはガスマスクまで発見した。
 が、いったい何から身を守ろうとしてるのかと思えば、千葉曰く「ただの趣味」。
「だってなんかさぁ、心躍んねぇ? こういうグッズって」
「別に踊んないね」
「お前は男じゃねぇよ中島」
 そんな会話をしたことがある。
 2人は買い物袋ごと奥の部屋に持ち込んで、それぞれ好きなアルコールを勝手に開けた。サンドバッグはスタンドごと隅に寄せたが、狭苦しい感は拭えない。昼間観てたDVDの続きを観てもいいかと千葉が訊くから了解したら『燃えよドラゴン』がはじまった。ウィリアムスがミスター・ハンにブチのめされてるシーンからだった。
 が、好きだよなぁと感心しつつ千葉を見れば、当人は素知らぬツラで缶の黒ラベルを啜りながらスルメを囓ってる。
「なんで点けたのに観ないの?」
「だってもう100回ぐらい観てるし。好きな部分だけ拾って観るからいいんだよ」
「海志くんの趣味って贅沢だよね。こういうグッズもさぁ、いっぱいあるけど使ったことあんの?」
「ねぇよ。残念ながらまだチャンスがねぇ。ま、チャンスなくても、自発的に試してみてもいいんだけど」
「やる時は捕まる覚悟でやりなよ」
 中島は言って、近くの床に転がってた手錠を拾い上げた。前に見たのと違う気がする。
「手錠が増えてるよ、海志くん」
「それは手錠じゃなくて足錠」
「え? 何? 足を拘束すんの?」
「足を拘束するから足錠なんじゃねぇか」
「海志くん、もしかして」
「は?」
「もうすでに、コレで足を拘束されて襲われちゃったりとかしてんの、ホントは」
「バカか、お前は。俺が拘束されるためのグッズじゃなくて逆だろうがソイツは」
「誰を拘束するわけ」
「未知なる敵」
 テレビ画面の中では、鎖で逆さに吊られたウィリアムスの遺体を見てローパーが顔色を変えるところだった。
 中島はそれを眺め、スミノフ・アイス・ドライのボトルを両手のひらで弄びながら口を開いた。
「海志くんはさぁ、人を傷つけたことってあんの?」
 スルメを咥えたまま煙草の箱を探っていた千葉が、手をとめて目を寄越した。
「どういう意味で? 肉体的にか、精神的にか」
「肉体的に」
「ま、そりゃ、ねぇとは言わねーけど。男だからな、ケンカしたことぐらいあんだろ誰でも」
「誰でもってことはないと思うけど、普通のケンカじゃなくて、たとえば相手を死なせかけたようなこととか」
「そこまではねぇな、残念ながら」
 護身グッズを使うチャンスがないのも他人を死なせかけた経験がないのも、千葉にとっては等しく残念らしい。
「じゃあ、そこまでやったヤツがいたらどう思う?」
「いたらって? いくらでもいんじゃねぇか、そんなヤツ」
「いや身近にいたらっていうか、えっと、たとえば俺が昔、そういうことやったとかだったら?」
「お前がかぁ?」
 バカにしきった声で訊き返した千葉は、手を伸ばしてベッドのヘッドボードに置いてあった爪切りを取ると気のないツラで足の爪を切りはじめた。
「ま、どうでもいいかな、そんなの」
「ちょっと、ほんっとにどうでもよさげだね、海志くん」
「だって過去とかどうでもよくねぇ? 未来には行けるけど過去には行けねぇじゃん?」
「え? 未来には行けんの?」
「10年経ったら10年後の世界にいんだろうが」
「──」
 中島が無反応でいると、千葉は舌打ちして「だからぁ」と面倒くさげな声で続けた。
「未来にはさぁ、時間さえかけりゃ確実に行けんじゃねぇか? 食いたくなくてもトシは食うワケだしさぁ。でも過去はどうしたって行けねぇだろ? だから、どう足掻いたってどうにもなんねぇコトなんか考えるだけ無駄じゃね? つってんの」
「タイムマシンが完成するかもしんないよ?」
「21世紀になってもクルマがタイヤで走ってるような世界で、いつになったらそんなモンが完成すんだよ」
 千葉は足の爪を切り終えると、その指でまたスルメを囓って煙草を咥えた。
「とにかく俺は昔のことに興味ねぇから歴史の成績も悪かったし、宇宙の起源とかにも興味ねぇの。もう終わってることだからな。だからお前だろうが誰だろうが、過去に誰かを死なせかけてようが殺してようが、俺に害が及んでねぇ限りはどうだっていい。だってそういうこと考えるのは俺じゃねぇし。当事者とか司法とか、そういうヤツらじゃん? 関係ないヤツにグダグダ言う資格はねぇだろうが」
 火を点けて煙を吐いた千葉は、手にしたスルメをじっと見つめてから「それよりも」とおもむろに縦に割き、ミスター・ハンの鉄爪にやられた腹の傷の血を舐め取るブルース・リーみたいな表情で厳かに言った。
「未知なる敵の方が重要だろ、やっぱ」
 どうやら護身グッズ蒐集はただの趣味じゃなく、見えざる敵への対策に昇格したらしい。
 
 
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