土曜の夕方、中島は某区某所の地域センターに足を運んでいた。
 昼間、誕生日だからメシを食わせてやると千葉が電話をかけてきた。が、夕方5時にウチに来いと言ったにもかかわらず自宅を訪ねると留守で、携帯に電話したら当の千葉は地域センターでテコンドーの練習中だった。
 場所を聞くと、ついさっき電車を降りた地下鉄の駅付近だと言う。千葉という男はそういうヤツだ。仕方なく中島は無駄に折り返して戻った。
 目的地に到着し、まず受付横の掲示板を確認したところ、どうやら3階でやってるらしい。エレベータで上がり、どこからともなく聞こえてくる野郎どもの掛け声を頼りに廊下を進んだ。
 部屋はすぐにわかった。周辺に無数の靴が無造作に置かれている引き戸があって、そのほとんどが小汚いスニーカーだったからだ。
 引き戸を開けて中を覗くと千葉はすぐに見つかった。意外に幅広い年齢層のメンバーの中に、見慣れた寝グセの後頭部がある。残念ながら女子はいないようだ。
 壁際に立って眺めていると千葉が気づいて近寄ってきた。
 千葉の道着姿を見るのは2回目だった。前にも一度、誘われて練習を見に行ったことがある。その時は日曜で、場所も時間も今日とは違っていた。
「よ、悪ィな。今週は変更になってたの、ギリギリで思い出してさぁ」
「思い出した時点で連絡くれればいいじゃん? 往復と電話の時間ひっくるめて、25分はロスしたんだけど」
「だからギリギリだったんだっつってんじゃん。しょうがねぇだろ、時間なかったんだから。細けぇこと言うなよ」
 まったく反省の色もなく千葉は言い、中島は溜め息をついた。
「そのいい加減さが海志くんらしいよ」
「傷つくんだけど、その言い方」
 ちっとも傷ついた風もなく千葉が言った時、練習が休憩に入ったようだ。途端に室内の空気がフランクに変化すると同時に、スルスルとこちらに近寄ってくる人影があった。
「あー、こんにちはぁ。前にも来てましたよねー」
 妙に親しげな口調と、微妙に媚を含んで聞こえる声。
 実は『女子がいない』というのは厳密に言えば事実だが、緩めに判断するならそうとも言い切れなかった。
 名前は知らないけど前回も遭遇した彼、いや彼女は、ピタリと千葉に寄り添うと屈託のない笑顔を中島に向けてきた。
「一緒にやらないんですかぁ、カイくんとぉ」
 そのハスキーな声を聞くと、どうしても某有名ニューハーフタレントを思い出してしまう。
「いや、毎週通うにはちょっと遠いし」
「遠いってどれぐらい?」
「5駅ぐらい隣だから」
「アタシ7駅だよ? でもカイくんに会いたいから、頑張って来ちゃうんだー」
 中島のやり取りとの間にも、彼、いや彼女は千葉の肩に顎を乗せ、ドサクサ紛れに両腕を腰に回している。千葉が舌打ちして頭を押し退けた。
「離れろよ恵介」
「もうっ、その呼び方はやめてよカイくん、ケイって呼んで!」
 怒ってみせる声も、やっぱり某有名ニューハーフタレントを彷彿とさせる。そういえば後ろでひとつにまとめた髪型も、つけまつげバッチリの目元も、何気に感じが似てなくもない。
「もー、カイくんってクールだよねー。こっちはこんなに全開なのに、全っ然ソノ気になる気配ゼロなんだもーん」
 自称ケイが中島を見て瞬きした。千葉がウンザリした横目をケイに向ける。
「あぁそうだ、いいこと教えてやる。こっちのお兄さんの方がクールだから。な」
「でもぉ、クールなトコだけじゃなくてー、カイくんのセクシィなトコもスキなの」
「俺ってセクシィなんだって、中島」
「セクシィだよねぇ? ナカジマくーん」
 ケイが同意を求めながら、
「このへんとかぁ、マジでドキッとしちゃうもん、練習中ぅ」
 と言いつつ、腰にしがみついてた手を道着のVネックの襟から突っ込んだ。
「触んな熊沢くまざわ恵介けいすけっ、ジョシを目指してるクセにやることはエロ親父じゃねぇかっ、お前はいっつも!」
「ちょっとカイくん、フルネームで呼ばないでよ!」
 もうっ、イヤッ、と飛び退いたケイの胸元には白いTシャツが覗いていた。残念ながらジョシは中にTシャツ着んだぜ、と前に千葉が言ってたのを中島は思い出す。
 そこで休憩が終わって集合がかかった。
「あ、んじゃ、6時すぎには終わっから待ってろよ」
「わかった」
「何、何、2人でどこ行くの? やらしいなぁ」
 ケイが嫉妬丸出しに口を挟むと、千葉が「ホテル行くんだよ」といい加減に答えた。
 傍目には仲良くじゃれ合いながら戻っていく2人を見送り、中島は何となくケイのセリフを反芻した。
 セクシィか。
 毎日寝グセも直さずに出勤するサラリーマンをそう表現するのはピンと来なかったが、こうして普段のスーツとはガラリと雰囲気の異なる道着姿を眺めていれば、まるきり理解できないというワケでもない気がしてくるから不思議だ。
 帯を締めた腰のあたりの細さとか、黒い襟から伸びる首筋のラインの滑らかさとか。意外に首が細いことも、そうえいばはじめて知った。それに裸足ってところがいい。素足というのは、何だか無防備に感じさせる視覚的効果がある。
 どうやら残り時間は型の練習らしく、階級ごとに別れてそれぞれ始まった。千葉は赤い帯、ケイは茶色い帯のグループ。型は自分的にはまったく憶えられる気がしなかったが、千葉のキビキビした動きは見ていて気持ちがよかった。
 
 
 練習を終えた千葉は、中島と2人で焼肉を食いに行った。
 とりあえずビールと枝豆と肉を数種類オーダーして、おしぼりで手と顔を拭いてる間にジョッキがやってきた。
「誕生日おめでとう、ナカジマミユキくん」
「フルネームで呼ばないでください、チバカイシくん」
「ケイみてぇなこと言うなよ」
「カノジョとはどこまでいってんの? 海志くん」
「は? カノジョって」
「だから、そのケイ……」
「それ以上言ったらマジ蹴りすっからな」
 千葉は言って煙草を咥えた。
「つーかアレは正真正銘オトコだ。対戦車ミサイルみてぇなのがブラ下がってんだぜ」
 火を点けながら断言すると、向かい側の中島がちょっと思案げな表情で黙った。
「確認したわけ?」
「したくはなかったけどな」
「どういう状況で確認できんの? そんなこと」
「去年のクラブの忘年会で酔っぱらってアイツんちに行ったら、襲われた」
「え、海志くんが襲われた方?」
「俺が襲うと思うのかよ」
「それ、どうなったの? 最後までいったの?」
「最後までいってたまるかよ、残念ながら未遂に終わったよ、当たりめェだろ。後ろから突っ込まれかけたトコで目が覚めて逃げたよ、悪ィか」
 中島の興味津々なツラに醒めた目を投げ、千葉はジョッキをカラにした。
 アレはこれまでの人生で1、2を争う仰天ニュースだった。
 酔っぱらっていい気持ちになって誘われるがままにケイんちに行き、さらに飲んでもっとイイ気持ちになって潰れたら、今度は何だか不穏な気持ちよさに見舞われて目が覚めた。なぜか床の上で寝起きに伸びしてる猫みたいなポーズをとらされてて、何だか下半身がスカスカして寒くて、おまけに尻の真ん中に一筋縄じゃいかない圧迫感があった。
 動物的な直感で総毛立ち、鬼気迫る思いで振り向くと、果たしてそこにはケイがいた。そしてまさにこれから千葉に挿入されようとしている対戦車ミサイルの砲身まで、なぜかやけに鮮明に見えてしまった。さらにギョッとした瞬間身体を貫いたのは、握られた股間のナニから強引に送り込まれる快感だった。
「え? 海志くんが突っ込まれるトコだったの?」
「だから襲われたって言ってんだろうが」
「だってカレ、いやカノジョ? あんなだけどソッチなわけ?」
「知らないけど、ンなの個人の自由じゃね?」
「心が広いなぁ」
「俺に害が及ばねぇならな」
「その事件は害が及んだうちに入んないの?」
「ま、ソレについてはアイツも反省したし。相変わらずベタベタしてくんのはウゼェけど、俺の味見しようとかマジで考えんのは諦めたみてぇだし、たぶん」
「味見ねぇ。でもさぁ、ていうかその状態までいってて、どうやって逃げたんだよ?」
「そのまま蹴り喰らわしたら鼻血出してブッ倒れたから服着て帰った」
「海志くんを襲おうと思ったらアレだね。最低限、脚は縛っとかなきゃいけないね」
「まぁそうだろうな」
 店のオネエチャンが肉の皿を持って来た。上タン塩とハラミと上カルビになりまーす。声とともにドン、ドン、と皿が置かれる。
「あー、あと追加でレバーとニンニク焼きください」
 千葉が追加オーダーしてオネエチャンが去ると、中島がタン塩の皿からトングを取り上げながら言った。
「すごい精がつきそうだけど、女は引っかけられないね」
「何の話?」
「海志くんの食い物の匂いの話」
「俺の食いモンじゃねぇ、お前のだろ。お前の誕生祝いなんだから」
「でも注文してんのはみんな海志くんの好みじゃん」
「お前も食えよ、遠慮せずに。ほらサービスで焼いてやるから」
 千葉もトングを掴み、中島が並べたタン塩の隣にカルビとハラミを敷いていった。
「あ、メシ頼むの忘れてた」
「あぁ、そういえば」
 通りかかったオネエチャンにライスと、ついでにビールも注文する。
 焼けた肉をタレ塗れにして口に入れると、練習で疲れた身体がひと息に回復するような錯覚をおぼえた。肉は決して高級ではなくとも、値段のわりには旨い。
「海志くんは、なんでテコンドーやってんの?空手とかじゃなくて。テコンドーってマイナーだよね」
「そんなモンお前、格闘技でもやろうかって思った時に一番近場でやってたからに決まってんだろ」
「ポリシーはないわけ?」
「別にねぇよ。でもまぁ打撃より蹴る方が好きだし」
「ふーん。じゃあ、いろんな格闘技を体得しようみたいな気持ちはないんだ?」
「ないこともないけど、ほかにも何かやるんだったら武器使うヤツがいいかな」
「剣道とか?」
「何でもいいけどモノで闘うヤツ。武器相手でも素手で闘うべきだとか、そういう清い信念ねぇし別に」
「清い信念ね」
「あぁでも、蹴りはもっと極めてぇけどな。自分的に向いてるっつーか、ガキの頃からさぁケンカんなると大体、蹴ってたしなぁ、やっぱ」
「海志くんって生傷の絶えない子供時代だったって感じするよね」
「あー、くだらねぇ理由でな。大抵は名前をバカにされたとか、その程度」
「名前? 海志くんの?」
「そう。フルネームを変な分け方して、血・馬鹿・石、とか言って揶揄うんだよ、クソみてぇなヤツが」
「そういうの、クラスに1人は絶対いるよね」
「お前もなんか言われてただろゼッテェ。意外と俺より暴れてたりして」
 千葉がニヤニヤしながら言うと、中島の表情が一瞬、空白になった気がした。
 が、すぐに苦笑した中島が口を開いた時、ライスとビールとレバーとニンニクが一気にやってきて会話の中断を余儀なくされた。テーブルが狭いから第一陣の肉をみんな網に乗せ、空いた皿を下げてもらう。
 灰皿で燃え尽きてた煙草に気づいてパッケージを引き寄せながら、で何のハナシしてたっけ……と考えかけた千葉は、ふいにあることを思い出した。
「そういえば、こないだホモじゃねぇ? っつってた営業いたじゃん、今回のコンペから新規参入の」
「あぁ、こないだの」
「昨日電話あってさ、まぁ用事は何てことねぇ確認事項だったんだけど」
 うん、と相槌を打った中島が焦げたハラミを摘んで悩ましげな様子を見せた。が結局、タレをつけて食う。
「最後に、中島さんいますかっつーから出かけてるって言ったら、じゃあいいですっつーんだよ」
「ふーん?」
「何か伝えましょうかって言っても、いえいいですって」
「ふーん? 何だろ」
「だからやっぱホモで、あん時中島に一目惚れして、ちょっとでいいから声が聞きたかったとかじゃねぇ?」
 その時の受話器の向こうの、たっぷり躊躇うような声音を反芻したら笑いが込み上げてきた。
 会議室で相対した平々凡々な営業マンが、どんなツラで中島の在席を確認したのか興味がないと言ったら嘘になる。
 おかしくてニヤついてたら、中島が露骨に溜息をついた。
「あのね海志くん。自分がホモに狙われてるからって、俺まで巻き込もうとすんのはやめてほしいんだけど」
「俺を狙ってんのはホモじゃねぇ、オカマだ」
「やるコトはおんなじじゃん」
「同じとは限んねぇじゃん、誰もあのホモ営業マンがお前に突っ込みたがってるとか言ってねぇよ」
「だから自分が突っ込まれたがってるからって、俺のケツの心配までしてくれなくても」
「中島テメェ、突っ込まれたがってねぇぞ俺は」
「あ、間違えた。突っ込ませたがってる……じゃない、突っ込みたがられ、てる? あぁ日本語わかんなくなってきた。酔っぱらってんのかな」
「ビール1杯半でか」
 見かけによらずザルの中島が、そんなモンで酔うはずない。
 
 
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