小学校6年生の時、転校生がやってきた。たぶん2学期のはじめだったと思う。
 ソイツは転入2日目に、母親の悪口を言ったクラスのヤツをボコッて学校に来なくなった。みんなは少年院に送られたんだとかテキトーなことを言ってたけど真相は知らない。
 結局当時、経緯はよくわからないまま終わった。でも、いま思い返せばソイツの母親がどっかの金持ちの二号さんか何かで、引っ越してきた途端にどっかから情報が流れて、口さがない母ちゃん連中が早速ウワサしてたのを耳にした子供が学校で調子こいたら返り討ちに遭った……みたいなことだったような気がする。
 やられたヤツはしばらく入院してて、2学期の後半になってから復帰した。
 でも正直、すっげぇイヤなヤツで乱暴者で普段からみんな嫌ってたから、内心拍手喝采だった。文学的に表現するなら『子供特有の無垢な残酷さ』みたいなモノで、死んじまえば良かったのにって囁き合ったりもした。
 ただソイツも退院してきたら大人しくなってて普通に付き合えるようになったから、結果としては別に死ななくても良かったし、本人にとってもいい薬になって良かったんじゃないかと思う。
 一方、だから転校生の方は顔を憶える間もなくいなくなったし、中学校に上がって環境の変化だ何だで揉みくちゃにされてるうちに、もうすっかり遠い記憶の彼方だった。
 なのに今ごろ、こんな運命の悪戯があるだろうか。脳内で首を捻って、また名刺に並ぶ字面に目を落とす。
 ──中島深幸。
 当時は黒板に書かれた文字を見ても、平々凡々な小学6年生の頭脳では、そのファーストネームをどう読むべきか見当がつかなかった。でも担任が声に出して紹介した時、アレ? って思った記憶がある。
 ナカジマミユキ。
 年代的に馴染み深くはなくとも、聞いたことぐらいはある某有名歌手と同じ名前だった。それに、女みたいな名前だなとも思った。
 が、しかしだ。そんな些末な思い出なんて、もう完ペキに風化してた。
 なのに受け取った名刺を見た途端、脳内の収納ケースがポンと開いたって感じだった。
 テーブルを挟んで座る、新規のクライアントの担当者3人。
 その顔を順番にチラ見した池尾いけおあゆむは、もう一度『中島』の名刺を寄越した男に目を戻した。
 
 
 さっきから何だかやけに中島をチラ見してる相手の営業マンを、千葉ちば海志かいしはちょっと怪訝な気持ちで眺めていた。
 年齢は、たぶん自分や中島と同じぐらい。これといった特徴もない中肉中背の、どこにでもいそうな営業職タイプ。仕事が終われば行きつけの飲み屋にでも立ち寄って、店主相手に客のグチでも零す日々に違いない。
 しかしだ。千葉と中島の間には波平が座ってるが、誰の目にも明らかに上役である波平を無視してソイツは中島ばっかり気にしていた。ちなみに波平は本名じゃない。ヘアスタイルがサザエさんの父チャンに似てるから、そういう渾名がついたってだけだ。
 ──ホモ?
 千葉が向かい側の営業マンの性嗜好を勘繰った時、波平の向こうで中島の声がした。
「あの、何かついてますか?」
 目を向けると、中島が居心地悪そうなツラで頬に手を遣っていた。そんな仕種は、ヒョロ長い優男のメガネくんに妙に似合ってておかしい。
「昼のミートソースじゃねぇのか」
 ニヤニヤしながら千葉がボソッと言うと、
「違います」
 波平のハゲ頭を越えて即答が返ってきた。後輩である中島は普段はタメ語で喋るクセに、こういう場では一応敬語で千葉に接する。
「今日はミートソースじゃありません」
「君たち、ミートソースはもういいよ」
 波平が口を挟んだ。
「すみませんね、こうやってすぐ脇道に逸れるんですよ」
 後半のセリフは正面の営業マンに向けられたものだった。営業マンは「いえいえ」と愛想よく笑顔を返した。
「どうぞお気遣いなく。私も脇道に逸れるのは大好きです。あぁでも、いまはお時間を取らせてはいけませんから、またの機会にゆっくりお話を伺わせてください」
「こちらこそ、お待たせした上になかなか本題に入れなくて申し訳ないです。じゃあ早速ですが、まずは資料を……」
 波平の声に合わせて、ホチキス留めした資料を中島が差し出す。受け取る瞬間、またソイツが中島のツラをチラ見するのを千葉は見逃さなかった。
 ──やっぱホモ?
 今日知ったばかりの営業マンがホモかどうかなんて真相は、まぁどうでもいい。でもあとで中島を揶揄って遊ぼうと千葉は思った。
 
 
 打ち合わせが終わって客が帰ると、中島なかじま深幸みゆきは先輩の千葉とともに喫煙所へ直行した。
 ただし先輩といっても、一身上の都合により中島が1年遅れてるだけで年齢は同じだ。
 中島がマーケティング部に配属された第一日目、朝っぱらから波平部長と大喧嘩してたのが千葉だった。脳天のチョロ毛がピーンと立つほど漲った波平が、ビルが揺れるんじゃないかってぐらいデカイ雷を落っことした直後、中島と千葉の目が合った。2人はその日、一緒に昼メシを食った。
「もしかして知ってるヤツとか?」
 煙草に火を点けながら千葉が言った。フィルタを咥えた唇の端が、笑いを堪えきれないといった風情に歪んでるのがわかる。
「誰が?」
「さっきの営業に決まってんじゃん」
 千葉は寝グセを揺らして笑い、その笑いと同じリズムで煙をプカプカ吐き出した。
「ぜってぇホモだと思ったんだけど、ま、何も知らねぇまま疑ってたら悪ィじゃん? 知り合いかもしんねぇし」
「いや、たぶん知らないヤツだと思うけど」
 遅れて煙草に火を点けた中島は、ひと口めの煙を吐いてから内ポケットの名刺入れを取り出した。さっき受け取った名刺を抜いてフルネームを確認する。池尾歩。イケオアユム? 全然憶えのない名前だ。
「やっぱ知らない」
「んじゃ、やっぱホモか」
「ホモが僕に何の用でしょうね」
 真面目くさって仕事用の言葉遣いで問いかけると、千葉がブハッと噴き出して答えた。
「知らねぇよ、一目惚れとかじゃねーの」
「そんなに魅力的かな、俺って」
「ホモ視点だと、そうなのかもしんないんじゃん?」
「ちなみに海志くん視点だと、どうなの」
「細長ぇメガネくんかな」
「それは単なる描写であって、魅力を語ってるんじゃないと思うんだけど」
「どうだっていいじゃねぇか、俺がどう思ってるかよりもホモに受けるかどうかだろ、いま言ってんのは」
「何か違う気がするし、ホモ受けするかどうかもどうだっていいよ」
「新たな世界に踏み込むチャンスかもしんねぇのに」
 言いながら早くも興味を失いかけてるらしい千葉は、実にどうでもよさげなツラでポケットから小銭を探り出した。
「てかコーヒー飲む? いまなら奢ってやらねぇこともねぇ」
「あ、じゃあ奢ってもらう」
「じゃあってのがアレだけど、まぁ許そう」
「海志くん、いい加減財布持ったら」
「よけーなお世話なんだよ」
 
 
『ai』の重い木製ドアを開けると、カウンタの中から糸井が目を寄越した。いつもと同じく眠そうなツラで、いつもと同じく客の姿はなかった。
 池尾歩は真ん中のスツールを引いて言った。
「相変わらずヒマそうじゃん」
「お前が来ない時は忙しいんだよ」
「もうちょっと立地のいいトコに移ろうとか思わねぇの、客の入りがよさげなトコ」
「これ以上忙しくなったら困るっつーの」
 糸井は答えて煙草を咥え、何か飲むか? と訊いた。バーに入って来た客に「何か飲むか」とは妙な質問だ。が、そこにツッコむには、いまの池尾はちょっと上の空すぎた。
「何でもいい、任せる、とりあえずビールで」
「とりあえずビールなのか任せるのかハッキリしろよ」
 言いながら、糸井はすでにグラスを手にしてサーバのレバーを倒していた。途中で泡をカットして寝かせる間にライターを擦って煙を吐き、注ぎ足して完了したハートランドのビアグラスを池尾の前に置く。
「あ、灰皿もくれよ」
「何だよ珍しいな」
「ついでに煙草もくれ」
「お前な、いま煙草がいくらすっか知ってっか?」
「さぁ?」
「お前が冬眠してる間にすげぇ値上がりしてっからな」
 眉間に皺を作った糸井が、パッケージとアルミの灰皿を寄越した。池尾はグラスに口をつけながら、飛んできた百円ライターを片手でキャッチして箱から1本抜いた。
「仕事で何かあったのかよ。なんかやけに落ち着かねぇ感じじゃん」
 さすが長年の友人は、数分座っただけで池尾の状態を看破した。
 池尾は煙草をひと口吸い、グラスに口をつけながら少し迷って、でも溜めておくことができずに迷いを放棄した。
「なぁ糸井。中島深幸かもしんないヤツに会ったっつったら、お前どうする?」
 言った途端、カウンタの向こうで糸井の空気が一変した。
 一旦完全に表情が消え、徐々に仇の幽霊にでも出くわしたような、嫌悪と忌々しさと驚愕がたっぷりブレンドされたツラに変化していく。
「池尾?」
「うん」
「それはお前、どのナカジマミユキのことを言ってんだ?」
「どのって、だから幸深いナカジマミユキ?」
「──お前な、いまさら俺の何を試そうとしてんだ?」
「や、別に何も試そうとか思ってないけどさぁ」
 歯切れ悪く応じながら、池尾は何気なく友人の額のあたりに目を遣った。いまは髪で隠れてるが、左のこめかみから生え際にかけて走る傷跡がある。
 小6の時、中島深幸の手で半殺しの目に遭わされたアホなガキは、この糸井いとい智康ともやすだった。
 
 
 まさか今ごろ、亡霊のようにその名前を聞くハメになるとは。
 糸井は八つ当たり気味に池尾のボトルを空けながら立て続けに煙草を消費していた。すっかり仕事する気分が失せて、店は閉めた。
「なぁ俺のボトル、カラにする気じゃないよな?」
「うるせぇ黙ってろ」
 目の前には池尾がもらってきたとかいう名刺1枚。
 中島深幸。
 そこにはたしかにそう印字されてるし、ご丁寧にアルファベットまで並んでやがる。
 Nakajima Miyuki、と。
 それがあの中島本人かどうかはわからない。でも、こんな名前の男がそうそういるだろうか?
 たぶん、いねぇ。
 糸井は胸の裡で呟き、ヤケクソでグラスを呷った。
 アレは、いろんな意味で思い出したくない事件だ。
 あの時はマジで死ぬかと思ったし、まさか自分がやられるとは露とも思ってなかったのにあのザマだし、我ながらどんなにロクでもないクソガキだったかも思い知らされた。目の前に座ってる池尾は、これまでも平然と「死んでりゃよかったのにっつってたんだよ、あん時。みんなで」と口にしてきた。
 最初は何てヤツだと思ってたけど、まぁそれも結果的には友情として役立った。そうやってデリカシーの欠片もなく事実を認識させてくれたおかげで、いまの自分があると言えなくもない。
「でもさぁ小学校ん時のアイツ、中島って、どんなヤツだっけ? 今日会ったヤツ見ても全然、ピンと来ないんだよなぁ」
「どんなヤツだったんだよ、今日のソイツは」
「なんか、痩せてて背ェ高くて、メガネかけてた」
「は? オタク?」
「や、そんなんじゃねぇけど。なんかフツーに痩せてて背ェ高くて、メガネかけてた」
 酔いが回りはじめてるのか、池尾は無意味に同じ描写を繰り返した。
「そんな感じだっけなぁ、糸井をボコッて大暴れしたナカジマミユキって」
「俺をボコッた言うな」
 ていうか顔どころか、何をどうされたのか、何を言った瞬間中島がキレたのかも、正確なことは記憶にない。大体の経緯としては、たしかソイツの母親がどっかの金持ちの愛人か何かだったらしくて、母チャンたちが嫌味たっぷりにウワサしてたのを聞いた自分が調子こいて、ついでに女みたいな名前についても揶揄ってバカにしたら、気づいた時には視界が真っ赤になってた──みたいな感じだったとは思うんだけど。
 でも何しろ頭の骨にヒビが入ってて、左のこめかみの傷からは死ぬほど血が出たし、丸2日は意識が戻らなかった。あとで聞いたところによると椅子で殴られたって話だ。それも一発じゃない。ナカジマミユキの振る舞いには、微塵の躊躇も容赦もなかったらしい。
 が。
 もちろん親は怒り狂ったワケだけど、意識が戻るまでの2日の間に中島の母親のいわゆるパパからガッポリ支払われた治療費と慰謝料を手にした途端、矛先が『管理を怠った学校』に向いたっていうから驚きだ。
 さらに少なくとも母チャンの方は、息子が後遺症もなく退院して学校生活に復帰する頃には「まぁ、結果的に悪くなかったんじゃない?」なんてホクホクしてた。
 なんつーヒデェ女だと思った。が、大人になった糸井が借金してでも自分の店を持つことを決意した時、彼女は慰謝料を丸ごと貯めておいた通帳をポンと放って言ったのだ。
「これも使いな」
 咥え煙草で。
 糸井はその時、ようやく母親を許す気になれた。でもその金が自分の犠牲の上に成り立ったモノだと思うと、それはソレで複雑だった。が、背に腹は代えられない。結局ありがたく遣わせてもらった。つまり店の準備資金を小学校時代の同級生のパパが援助してくれたようなモンだ。
 だから正直、やっぱり複雑だった。
 中島深幸は糸井を死の淵に追い遣ろうとした存在であり、しかしその中島資金によって現在の己がある。
 
 
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