シャワーだけで済ませてバスルームを出ると、西浦が缶ビールを傾けながらテレビを眺めていた。相変わらず首にタオルがかかってる。
「酒じゃねぇ炭酸はどうしたんだよ?」
「飲んだ。残り、やるよ」
 言って顎で示したテーブルの上にサイダーの缶が置いてあった。持ち上げてみるとまだ重い。
「全然減ってねぇじゃん」
「やっぱアルコールが入ってねぇとダメだってことに、ひと口飲んだ時点で気づいた」
「じゃあこれで何か割るか? 梅酒とかあるけど」
「梅酒? んなモン飲むのかよ、お前」
「俺じゃねぇよ、ナツミが置いてったヤツ」
「久しぶりに聞くな、その名前。別れてどれぐらいだっけ?」
「7ヶ月。梅酒が嫌ならジンかウィスキーもあるぜ」
「うん……」
 西浦は曖昧に答えただけで煙草に火を点け、思い出したように久慈を見た。
「そうだ、指輪どうした」
「あ、洗濯機んとこに置きっぱなしだ」
 フロに入る時に気づいて外した。久慈は脱衣所に取って返し、指輪を持ってきた。
 が、返そうとしても西浦はテレビに目を遣ったまま「そこ置いといて」と言って煙を吐いただけだ。
「嵌めとけよ、なくすぞ」
「いまそんな気分じゃねぇ」
「スネてんなよ、ちょっと別れ話が持ち上がったぐれェで」
 西浦がチラリと目を向けてきた。
「何だよ、スネてんだろ?」
「誰がスネてんだよ」
「こんなトコに逃げてきてねぇで、帰って話し合った方がいいと思うけど俺は」
「だから明日帰ったら話すっつってんだろ。今日はそんな気分になれねぇ」
 久慈は無造作に頭を拭きながらテーブルの脇に胡座をかいた。煙草を咥えてライターを探すと、西浦の前に放り出されてるのが見えた。
「こういう時は男の方が弱ぇって聞くけどホントだな」
 揶揄うように言ってライターに伸ばした指を、西浦の目が追う。
「つーか、ここにいたって何の解決にもなんねぇじゃん? 俺に何か相談しようってワケでもねぇみてぇだし、そういうの相談されても俺も困るし、わかんねぇから」
 久慈は火を点けてサイダーの缶を眺め、で、何か飲む? と訊いてみた。返事の代わりに、ライターを戻した手を掴まれた。
 何だよ? と顔を見たが西浦は無言で手もとに目を落としたまま、再び久慈の薬指に指輪を嵌めてきた。
「おい、だから俺に嵌めてどうすんだって」
「お前の手の方が似合う」
「は?」
 久慈は、その銀色のシンプルなリングをちょっと眺めた。
「そうか? くれんの?」
「お前には別のヤツを買ってやる」
 たぶん冗談なんだろうが、テレビを観ながら咥え煙草で言った西浦の横顔にはどんな色合いも見えなかった。
「どうせ買ってくれんならカネに換えられそうなヤツにしてくれ。なんか酒、適当に持ってくるよ」
「久慈」
 立ち上がった久慈を西浦が呼んだ。
「来いよ、キスしようぜ」
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 数秒置いてやっと理解し、今度はどう反応するべきか迷って立ち尽くしていると、西浦がこっちを見上げて唇から煙草を抜いた。それを灰皿に放り込んだ手が伸びて久慈の手首を掴む。
 引っぱられる自分の手を見て、まだ指輪が嵌ってやがると頭の隅で思った次の瞬間、転びそうになって久慈は喚いた。
「ちょっ、西浦!」
 咄嗟に西浦の脳天に右手を突くと、顔を顰めた西浦にそっちの手首も掴まれた。おかげで久慈は今度こそバランスを欠いて転がった。肩、それから背中に衝撃。でも庇うように回った友人の腕が、いくらかそれを緩和した。
「ッ……つ、クソ」
 はずみで閉じた目を開けた時、視界には色褪せた天井と覗き込んでくる西浦の顔があった。慣れないアングルで見上げる友人は、何だか知らない人間みたいだった。
「コラ、まだ酔ってんな西浦」
「たぶんな」
「まだ別れたワケでもねぇのに動転しやがって」
「俺はキスがしてぇだけだ」
「いますぐ帰って嫁にしてやれよ、そのままベッドに入りゃ一発で解決すんだろ?」
「だから今日は気分じゃねぇって言ってんだろうが」
 床に押しつけられた両手首にかかる重み。それがわずかに変化したのを感じて久慈はもがいた。蹴り上げようとした脚の間に西浦の片膝が入ってくる。
「キスぐらい、ガタガタ言うことか? 俺とお前の仲で」
「どういう仲だよ!?」
「何回もやってんだろ、いままで」
「罰ゲームのことか? お前とやったのは1回ぐれェだろうがっ」
「さっき2回したから、もう3回だ」
「そんなにしたきゃオンナとしろよ!」
「オンナとやったら浮気になるじゃねぇか」
 あぁそうか、と一瞬納得しかけて、いや違うだろと己にツッコんだ時には、西浦のツラが間近に迫っていた。
 唇が触れた瞬間、背筋に走った悪寒に似た感覚。内腿に割り込む膝が股間を擦り、気を取られた隙に舌を入れられて久慈は呻いた。アルコールの匂いが嗅覚に障る。テレビのバカ笑いを、違う世界の物音みたいに感じた。
「ん……!」
 顔を背けようとする久慈の頭が、手首ごと抱え込まれて固定された。
 何が罰ゲームだ? こんな濃厚なヤツを罰ゲームでやってみろ、次の日から社内でホモ呼ばわり決定だ。
 とか何とか思ったって、口の中で出血でもされたら気持ち悪いから舌を噛んでやる気にもなれず、好き勝手に探り回されながら内心で毒づく一方、久々の他人の舌触りに脳ミソの芯がだんだん麻痺してくる。野郎相手でもいいじゃねぇか、気持ちよけりゃ──うっかり受け入れかける自分を慌てて否定した久慈は、しかし股間に当たる膝に体重をかけられて全身を硬くした。無意識に突っ張ろうとした腕は、手首を押さえられていて自由にならない。
 それでも腰を捩って振り上げた脚がロウテーブルを蹴った。空き缶が倒れる音がして灰皿の灰が舞う。
 が、直後に明らかな意図をもって股間を擦り上げられ、鼻腔から切羽詰まった声が漏れた。
「──ッ!」
 何がしてぇんだ、コイツ!
 でも焦りとは裏腹にカラダの抵抗は緩慢になっていく。まず舌が、気持ちを裏切って西浦の舌に応えだしていた。
 もともとアルコールが入ってた身。自分的には素面のつもりでも、やっぱりどこかにアバウトな部分が存在してるのかもしれない。
 キスぐらい、ガタガタ言うことか? 脳ミソの片隅にこびりついた西浦のセリフ。
 それもそうだ。考えてみりゃ犯されそうになってる処女じゃあるまいし、本気で抵抗する方がなんか恥ずかしくねぇか。そんな気持ちがポンと生まれる。
 それに、友人が嫁に離婚を切り出されて狼狽えてるってのに、久慈には自信を持ってかけてやれるような言葉のひとつもない。あるのは誰にでも言えるような浅い慰めだけだ。だったら、キスしたいって言うんなら唇ぐらい貸してやったっていいんじゃないのか。
 オンナ相手じゃ浮気になるっていう、嫁さんへの誠意? みたいなモンを汲んでやったって……
「ッ、あ!」
 膝でナニを揺すられると同時に唇を外されて、思いも寄らない声が零れた。
 自分で驚いてハッと上げた目の前では、西浦が繋がった唾液の糸を舐め取っていた。──眩暈を感じた。ナニが嫁さんへの誠意だ? 冗談じゃねぇ!
 ウッカリ絆されそうになった己を内心で罵り、久慈は西浦を睨みつけて喚いた。
「西浦!!」
 無様に強ばった声。対する西浦は、どういうわけか唇の端に小さな笑みすら浮かべてる。
「悪くねぇな」
「はぁ?」
「結構いいカンジだったじゃん?」
「誰が、てかどけよ、いい加減!」
「俺はすげぇ良かった」
「──」
 何がどう良かったってんだ?
 てか、あぁ唇なんか貸すんじゃなかった。後悔する久慈の上に、なぁ、と低い呟きが降ってきた。
「触らせてくんねぇ?」
「は? 何に」
「何っつーか、どこでもいいんだけど。人肌に触ってねぇから、最近」
「は? 人肌ってお前……俺の身体に触るってのか?」
「悪ィか?」
「当たり前だ、フザけんな! どんどん要求がエスカレートしてんじゃねぇかっ、自分の腹でも触ってろっつーの」
「人の肌に触りてぇんだっつってんだろ」
 ヒトの、という部分を強調して西浦が繰り返した。埒が明かないやり取りに辟易し、久慈は目を逸らして溜め息をついた。
「お前、今日おかしいぞ」
「さっきも聞いた、それは」
「そうだっけ? てかさぁ、そりゃ気持ちは全然わからなくもねぇけどな? 俺に触ったからって何か解決すんのか? しねぇだろうが」
「解決とか関係ねぇし。触りてぇから触らしてくれっつってんだよ」
「だから触りてぇなら家帰っ」
「頼む、久慈」
 淡々と遮った声に思わず目を戻すと、妙に静まり返った西浦のツラがまっすぐ久慈を見据えていた。
 あぁ、そうか。久慈はどうでもいいことに気がついた。見慣れないと思ったのはアングルのせいだけじゃない。たぶん、洗いっぱなしで未だ湿り気を帯びる髪のせいでもある。
 でもそんなのはいま、やっぱりどうでもいいことだった。
 ついでに気分までどうでもよくなった久慈は、わかったわかった、ちょっとだけだぞ、と言って投げ遣りに瞼を閉じた。つまりキスと同じだ。だんだん、それぐらいのことを頑なに拒む方がオカシイんじゃねぇかって気がしてきた。
「ホントにいいのか」
「言っとくけど、擽ったりしたら殴るからな」
「じゃあ片手離すけど、擽んねぇから殴んなよ」
「殴んねぇから両手離せ、それと脚どけろ」
 聞いてるのかいないのか、西浦は久慈の左手だけを解放してTシャツの裾から手を忍ばせてきた。股間の膝も退かない。久慈は自由になった手でその膝を押し遣った。
 鳩尾を這う他人の手のひら。それも女のソレとは明らかに違うサイズと肌触り。何やってんだろうなぁ俺たち? 呆れながらも、じっくり肌を撫でられる感触に身体が震えそうになるのを堪えた。
「面白ェか?」
 聞いても西浦は答えない。
「気ィ済んだら抜けよ、手」
「もうちょっと」
 今度は低い呟きが返り、指が肋にかかった。皮膚越しに1本1本、骨と骨の狭間を辿る指先。腹の奥がゾクリと疼いた気がして、久慈はTシャツの上からその手を押さえた。
「ちょ、もういいだろって」
 言った直後、床に固定されたままの右手にさらに重みが加わった。と同時に降りてきた西浦の顔がノド元に埋まり、顎の下に柔らかく喰らいつかれて腰が跳ねた。
「西っ……」
「ヤベェ、なんかすげぇ興奮してきた」
「すんな、コーフン!」
「しょうがねぇだろ、男ってのは簡単な仕組みになってんだから。それにいい匂いするし、お前」
「フロの石鹸だろ? お前もおんなじ匂いしてんだっつーのっ」
「そうそう、てかアレさぁ、石鹸とか使ってるヤツいまどきあんまいなくね?」
「悪ィかよ、もらいモンだよ! しょうがねぇだろ、ボディソープが切れてんだから」
「別に悪くねぇよ。いいカンジに興奮するし、この手の匂いって」
 首筋を這いのぼった唇が耳たぶに吸いつき、Tシャツの中で指先が乳首に触れた。みっともなく震えた久慈の股間に再び膝が押しつけられる。
「ッ……」
「お前だってさっきから興奮してただろ? キスだけで」
「し」
 てねぇっ、と続くはずだった声を西浦の舌が舐め取った。指はすでに乳首から遠ざかっていた。でも脇腹から腰に滑る手のひらの動きを、ものすごく不穏に感じるのは気のせいか……。食い縛った歯をひと舐めして唇が離れる。低い囁きが聞こえた。
「お前、誓うっつったよな?」
「は……?」
 見上げると、今夜見た中で最高に据わってる目が至近距離にあった。
「永遠の愛を誓っただろ、俺に」
「はぁ? え? 何、さっきのアレか? いやお前、まさか本気とか思ってねぇよな」
 いくら何でもそりゃ、ありえねぇだろ。という思いを視線に込めた。幸い、それは間違いなく伝わったようで、西浦は当然というツラで「思ってねぇよ」と答えて寄越した。が。
「でも永遠はともかく、今夜だけ誓ってみねぇか」
 このセリフにはブッ飛んだ。つまりこの妻帯者の同僚は、ひと晩かぎりの浅い愛を誓えと迫ってるわけだ。
 いくら酔っぱらってるったって、野郎相手にソレもありえねぇだろ──あまりのことに絶句する久慈の左手を、西浦の手が引き寄せた。自由な方の左手。その薬指の付け根に唇を押しつけられて、相変わらず指輪が嵌ったままだってことに久慈は気づいた。
 指輪ごと舐め上げられた薬指が、次に頭から咥え込まれる。濡れた粘膜に包み込まれて舌で執拗に嬲られて、得体の知れないゾクゾク感が脇腹から這い上がってくる。
 思わず目を閉じた久慈の耳にチュッと軽い音が届いた。指が解放され、その手が再び床に縫い止められる。
「あぁ……」
 呟きとともにまっすぐ落ちてきた視線が、やけに重いと感じた。
「今夜いっぱいもいらねぇか。一発抜く間だけでいいから誓え」
「一発って、お前──」
「痛ェことはしねぇから」
 パッと見、素面のようにも思える同僚のツラをよくよく見れば、やっぱり何時間も飲み続けた男の目をしていた。つまり酔っぱらいだった。
 
 
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