久慈は絶句したまま、しかし負けじと見返しながら考えた。──なんでそうなるんだ?
「あのな西浦」
「うん」
「帰れ」
「何だよ、いきなり」
「いきなりじゃねぇだろ、てか嫁さん以外の人間に指輪を嵌めさせてキスしようとか思うのは浮気じゃねぇのかよ?」
「判断が難しいな」
「悩まなくていいから、家に帰って自分の嫁とキスしてみろ。ワケわかんねーこと考える必要とかなくなるから」
「いねぇよ。出かけてる」
 西浦はあっさり答えて煙を吐いた。
「さっき電車ん中で連絡来た。例の仕事仲間とか、そっち関係のヤツらと集まるからメシは外で食ってくるってさ」
「まさかとは思うけど西浦お前、嫁さんがいねぇからって、また拗ねて当てつけがましく俺んとこに来たワケじゃねぇんだろうな」
「当てつけがましくって何だよ、人聞き悪ぃな」
「あのな、いいか俺はな、お前の心の隙間を埋める存在とかじゃねぇの。勘違いすんなよ」
「あぁ、心の隙間をな。うまいこと言うな、お前」
「納得すんな。とにかく俺はお前の隙間を埋めたりしねぇし、メシを食いに行こうってんなら付き合ってもいいけど、そうじゃないなら帰れよ。明日も仕事あんだから」
「腹は減ってない」
「じゃあ帰れ。指輪は嵌めねぇしキスなんかしねぇ。言っとくけど餃子食ってっからな俺」
「なんだ、餃子食ったからしねぇのかよ? 意外とデリケートだな久慈。気にすんなよ、そんなの」
「違う、牽制してんだ。餃子ぐらい食ってたってキスはできる」
「じゃあしようぜ」
 会話が妙なところに着地した。
 ちょっと持て余すような気分をおぼえて黙り込み、コイツはこんなヤツだったか? と久慈はこれまでの付き合いを振り返った。
 西浦という友人は、見てくれはいい男だけど、だからってタラシな要素は持ち合わせてない。それどころか驚くほど一途だ。高2の春から付き合いだした嫁さんと社会人生活2年目に結婚し現在に至るまで、本人の言を信じるなら一度たりとも浮気したことなんかないらしい。
 かといって、そんな一途さからイメージするような純粋で人畜無害の『いい人』タイプでもなく、しかしアグレッシブというわけでもない、極めて安定した平均的な30前のサラリーマンだった。少なくとも執拗にキスさせろなんて迫るようなヤツじゃないはずだ。それも野郎相手に。
 つまり──よっぽど堪えてんのか、やっぱ。嫁さんのコトが?
 鬱陶しがるべきなのか憐れむべきなのか判断に困った久慈は、最後には面倒な気分に駆られてうんざりした。その面倒クサさを溜め息とともに吐き出す。
「あのさぁ西浦お前、やってるか?」
「何を」
「だから、嫁さんとだよ」
「何を聞きたいんだ?」
「や、欲求不満なんじゃねぇかって思って」
「やってないこともない」
「じゃあいいじゃねぇか」
「でも……」
 何か言いかけて口を閉じた西浦は、いや何でもねぇ、と煙草を灰皿に押しつけた。そして突然言った。
「帰るわ」
「え? あ、そう」
 立ち上がってハンガーから上着を剥ぎ取る友人を見上げ、久慈も煙草を消した。拍子抜けしたが、正直ホッとした。
 座ったまま缶ビールを傾けてる間に身支度を整えた西浦が「じゃあな」と玄関に向かうのを見て、テーブルの上の指輪に気づいた。
「なぁ持って帰れよ、これ。指輪」
「お前にやったんだ、持ってろよ。失くすなよ」
「だから俺がこんなの持ってたって……あ! つか待てよ西浦!」
 三和土で靴を履きかけていたコートの背中が振り返る。すっかり忘れてた。シャツとパンツだ。
 部屋の隅に置いてあったセレクトショップの紙バッグを掴んで持っていくと、あぁ、と西浦が頬を緩めた。
「忘れてたな」
「お前コレ取りに来たんじゃねぇか、そういえば」
「そうだっけ」
「来た時に言っただろ、自分で」
「あぁ、そうだなぁ」
「それから、これも持ってけよ」
 言って指輪をコートのポケットに滑り込ませると、西浦の眉間にかすかな皺が寄った。でも何も言わず、代わりに紙バッグの持ち手を受け取る指が久慈の指に重なった。
 偶然か故意か。無意識に頭の隅で疑った瞬間、肩を壁に押しつけられていた。ブレた視界にコートの襟が迫るのが見え、反射的に頬を背けるのと耳たぶのあたりに唇を感じるのとが同時だった。ゾクリと全身に震えが走る。
「ちょ、西……」
 押し返そうと藻掻く久慈の顎を西浦の手が掴む。強引に被さってきた吐息が唇に触れ、舐め取るように塞がれて心臓が跳ねた。足元に滑り落ちた紙バッグの乾いた音。逃げるような心境で目を閉じてしまったら、そのまま開けることができなくなった。
 なし崩しに入り込んできた舌の動きが、あの夜を思い出させる。腹立たしいことに気持ちイイ。
 いつの間にか腰に回った手でしっかり抱き寄せられて、脚の間に割り込んできた腿がさりげなく股間を圧迫していた。
「お前こそ、実は欲求不満なんじゃねぇか?」
 久慈の唇を解放した西浦が、顎の下に喰らいついて舌を這わせながら低く言った。
「ちが──誰が、てか、やめろ……」
「やめてほしいようには聞こえねぇな、その声」
「お前っ、こんなの……浮気だぞ!」
 喚いた途端、西浦が動きをとめて顔を上げた。久慈は視線を合わせたくなくて、慌てて目を反らしながら腕で西浦を押しやった。
 西浦はそれ以上無理強いする気配は見せず、かといって退く素振りもなく、壁に肘をついて至近距離から見下ろしてきた。
「浮気か?」
「う、浮気だろっ? どう考えても! お前、嫁さんに言えんのかよ? 俺に指輪を寄越してキスとかしてるって!」
 ツッコむと、西浦は考え込むようなツラで少し黙った。それから久慈を見て、さらに無言のまましばらく考えていた。
 そこまで悩むようなことかよ? 呆れて口を開きかけた時、ほぼ同じタイミングで西浦が言った。
「言えねぇな」
「じゃあ……」
「お前も共犯だ」
 遮るように投げかけられたセリフは、久慈を絶句させるに足るものだった。──何だって?
 脳内で問い返す久慈を覗き込むように友人の目が迫る。すっかり存在を忘れていた脚が、ふいにザワリと股間を擦った。
「ッ、ちょ!」
「お前は誰かに言えるか? 俺とキスして一緒に気持ちいいコトして指輪までもらってるって」
「言えるかよっ……だいたい、それはお前が」
「俺のせいにばっかりすんなよ、いい年した大人が」
 言われてグッと言葉に詰まる。そりゃそうだ、それはわかってる。でも、でもな!!
「言えねぇってわかっててやってんだから、これが浮気だって言うならお前も共犯だよな?」
 そうじゃねぇか? と畳みかけてくる声を唇のすぐそばで聞いた。理不尽な言いがかりをどう否定するか迷っているうちに、そこは容赦なく塞がれて反論する術を失っていた。
 西浦の言うことにも一理ある。たしかにこれは対等な大人同士の話で、最後まで拒まない自分にも責任はある。それはわかってる。
 わかってるけど、もとはといえば落ち込んでるコイツを気の毒に思って、ワケわかんねー要求をうっかり呑んだのが間違いで……あぁクソ、下手な同情なんかするんじゃなかった!
 が、己の判断ミスを激しく悔やむ間も、気づけば性懲りもなく友人のペースに乗せられていた。
 濡れた音を響かせて舌が擦れ合い、脚の付け根を腿で刺激されて思わず西浦のコートにしがみつく。ドサクサに紛れるように左手を取られ、冷たいリングがスルリと滑り込んでくる感触を薬指に感じた。
「コイツを嵌めてる時は俺のモノだ──なぁ久慈」
 そう囁く声を聞いたのは、首筋を噛まれながら股間を掴まれ、声を漏らして震えた瞬間だったか。
 その時、左手の指はしっかり絡め取られたままだった。
 
 
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