佐藤は奥歯を強く噛み締めて、欠伸を堪えた。
 
 ホール前方の壇上では、社長が会社の方針と事業展開の見込みについて喋り続けていて、まだ暫く終わりそうもない。
 周囲の人間は新しい環境への緊張と期待、そして今現在の退屈を噛み殺し、何とも言えない表情をしている。自分もそうなのかもしれないが、自覚はなかった。
 別に新生活に期待がないわけではないし、緊張がないわけでもないが、どうせすぐに慣れるだろうと思えばそれも薄れる。
 取り敢えず、目下の問題である退屈な時間をやり過ごすため、佐藤は頭を動かさずに周囲を見回した。
 斜め前で、思いっ切り居眠りしている奴がいる。
 頭は揺れていないから真後ろから見たら分からないだろうが、斜め前だから目を瞑った顔がよく見えた。
 座高からして身長は高くない。痩せていて、目を閉じた横顔からすると特別悪くはないが、女が振り返るほどいい男というわけでもなさそうだ。要するにごく普通のその男は、リラックスしきって眠っていた。
 そのツラを眺めていたら、ついついつられて眠りそうになる。佐藤は居眠りする男から目を逸らし、社長の真っ赤なネクタイに目を向けた。
 
 
 
 何とか沈没せずに入社式を終え、佐藤は大学の同級生である田中とダルかったな、と言い合った。
 同じ会社を受けたのは田中だけではなかったが、最終的には二人になった。しかし、例え二人きりでも大学時代からつるんだ気心の知れた奴がいるというのは心強い。
 その田中が、椅子から立ち上がって無駄話をしたり、伸びをしたりしている新人を見回して急に固まった。
「……山田」
 名前を呟いたところを見ると、知り合いでも見つけたのか。
 佐藤が田中の視線の先に目をやると、ホールの向こう端で新入社員が一人、田中を見て目を瞠っている。
 どこかで見た顔のような気がするが誰か分からない。そいつが最初は恐る恐るという感じで、次いで意を決したように歩いて来るのをぼんやり眺め、ようやくさっき居眠りしていた奴だと気がついた。
「チョー久しぶりじゃん!」
 田中の前に立つと、歩き出すまでの慎重な態度と裏腹な笑みを浮かべてそいつは言った。
 人懐こい笑顔、と言えなくもないが、目の奥に一枚壁を築いたような距離感もある。多分、田中とは顔見知りという程度なのだろう。
「こんなとこで会うとはなー……」
 田中は余程驚いたのかやや強張った顔で言った後、数秒黙り込んで突然佐藤の方を向いた。
「あ、コレ、佐藤」
 そうして田中はまた、山田という奴に向き直った。
「大学の同級生」
「どうも」
 田中は何かもっと喋れよとでも言いたげに佐藤を見て眉を寄せたが、一体何を言えばいいのだ。
「こっち、山田。高校がおんなじ」
 今度は山田を指して田中が言う。
「高校おんなじでも、アタマの出来は全然違うけどなー」
 山田という奴は屈託なく笑い、田中も僅かに頬を緩めた。
 田中と同じ高校出身で、高校時代から田中と付き合いのある奴が大学にも何人かいたが、確かに田中は成績が良かったらしい。しかし、そいつらから田中の交友関係を聞いた時には、山田という名前は出てこなかった。四年前のことなど大して覚えてもいないが、そこには確信がある。
 『山田』というのは記入例なんかによく出てくる苗字だが、実際には自分の苗字『佐藤』のほうが余程数が多いと思う。現実に、佐藤の知人に『佐藤』は複数いるが、『山田』はかつて一人もいない。だからこそ、聞けば覚えている気がした。
 配属先がどこだとか、高校時代の古文の先生がどうしたとか、田中と山田は思い出話をぽつぽつと続けていた。
 ややぎこちなく見える田中の態度とは逆に、山田は居眠りしていたときと同じに自然に見える。元々そういう性分の男なのかも知れないし、そうではないのかも知れない。佐藤は田中をよく知っているから、田中にだけ緊張を感じるのかも知れない。それとも、山田は余程、己を見せないことに長けているのか。
 見慣れた田中の顔から視線を外し、山田という奴を改めて眺めてみる。
 どこからどう見ても普通の奴。
 どこかかったるそうな仕草、前髪の間から覗く瞳の奥の、一瞬見える堅固な壁。
 別に、俺にとってはどうでもいい。
 佐藤は田中と山田から僅かに顔を背けて欠伸を噛み殺した。
 田中の友人だというのならそのうち自分も友人の一人として山田を見るのかも知れないが、先のことなど分からない。
 二十二歳の四月。
 今この瞬間、見通せる先などありはしない。何もかもが遠く、窺い知れないくらい先にある。
 公会堂のホール。高い位置にある窓から見える青空と、その下にあるはずの周囲の世界に意識を向けながら、佐藤は目の前の二人のことなど忘れて未来に思いを馳せた。
 
 
 友人のひとりとして親しくなり、同居人としてその部屋に転がり込み、深夜の気紛れで無理矢理抱いて、そうして何かを掻き乱されて壁の向こうを思うことになるなんて、その時の佐藤は知りもしなかった。
 自分こそ、いつの間にか何かを隠すことに長けたオトナになっていることに気付くのも。
 それを忌々しく思いながら、あの春のことを思い出すのも。
 今はまだ遠い、先の話。
 
 
【END】

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