大通りから中道に逸れて、住宅街の中をしばらく進んだ。
 背中を見失いかねなかった駅とは打って変わって、人通りがない。そのため、気づかれないように注意を払う必要があった。
 いや、気配に気づいて振り返ったなら、そのときはそのときじゃないか。
 こっちを見たって、この暗さで顔が判別できるとは限らない。そもそも、顔を見たところで谷中が気づくかどうか。
 自分では大して変わってないつもりでも、ブランクは十四年。前を行く谷中の変化のなさとは違い、髪型だって年齢なりのビジネス仕様だ。
 一方通行でもおかしくないくらい細い道路の両脇には、新しいマンションやら古い平屋の戸建てやら、さまざまなタイプの住宅が並んでいたが、総じてこぢんまりとしている点が共通していた。
 同じような景色が続く通りを、同じような角で三回折れた。
 やがて、とあるアパートの敷地に谷中が入っていくのが見えた。
 今どきあまり耳にしないような金属製の階段を踏む音が、手前の戸建ての塀越しに聞こえてくる。
 カン、カン……と、お世辞にも軽妙とは言い難いリズムは、やがて廊下を進むかったるい足音に変わった。
 続いて鍵を開ける気配。ドアを開閉する軋んだ音。ただいま、の声はなかった。
 塀の陰を出て近づいてみると、やたら古いアパートが建っていた。
 敷地内の地面は剥き出しの土で、雨が降ったらぬかるんで難儀しそうだ。
 築何十年だろうかという木造モルタルの壁面に走る、いくつものひび割れ。錆の浮いた階段の途中には、もはや消えそうに薄れた古臭い墨文字で『不忍荘』と書かれたプレート。
 階段の下には、上下に三つずつ並ぶ銀色の郵便受け。
 下段は全て手書きの苗字が貼りつけてある。上段は真ん中のひとつだけ。
 が──『湯島』?
 谷中の自宅じゃないってことだろうか。
 数秒の間にいくつかの可能性が頭を過ったが、いくら考えたところでどれも憶測に過ぎなかった。
 そこで気づいた。
 郵便受けに名前がひとつだからって、その部屋とは限らないんじゃないのか?
 谷中が入ったのは手前か奥の部屋で、ネームプレートは入れてないだけなのかもしれない。
 そう思い、ベランダ側に回ってみた。それにしても、こんな風にウロついてるところを誰かに見られたら完全に不審者だ。
 果たして、二階に三つ並んだベランダの右と左の手摺りには『入居者募集中』のプレートが据えられ、どちらも古びた雨戸がピタリと閉ざされていた。
 様子が違うのは中央の一軒だけで、男の独り暮らしとしか思えない洗濯物が所在なげにぶら下がっている。
 こうなると、やっぱり谷中が入ったのは湯島宅でしかあり得なかった。
 いっそ、階段を上がってあのドアを叩くか。
 どうせ郵便受けの名前が谷中だったとしても、それでどうするなんて考えてたわけじゃない。だったら確認したっていいんじゃないのか。
 あれは本当に谷中なのかどうか。よく似た他人の空似って可能性もある。
 もしも別人だったなら、部屋を間違えましたとでも言えば済む。
 そう考えながら、二階のベランダに吊られた洗濯物を見るともなく眺めた。
 Tシャツ二枚、スウェット一本、ジャージの上下ひと組。ピンチハンガーにぶら下がるタオル数本、靴下二足、黄色と紫のボクサーブリーフ二枚。
 その下着の色に蘇る何かがあった。
 高校時代の谷中も、いつも派手な色のものばかり好んで穿いていた。
 玄関側に引き返して階段を上がり、まるで他人のもののように感じられる足を運んで、中央の部屋の前に立った。
 遺跡並みのアパートの古さを裏切らず、ドアホンはおろか呼び出しボタンすらない。
 軽く握った拳を上げて、躊躇ったのはほんの数秒。
 目蓋を閉じ、開いて、安っぽい木目調のドアをノックした。
 それが自分の日常をガラリと変える合図になろうとは、これっぽっちも考えることなく。
 
 
【END】

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