行き交う人波の向こう、脚の林の隙間にチラリと見えたものを思わず二度見した。
 ショットガンの空薬莢キーホルダ、色はライトブルー。
 好きなヤツは好きだろうし、特別珍しいものってわけでもない。かといって、そこら中で見かけるアイテムでもない。
 昔、似たようなものを愛用していた人物を知ってる。
 だからだろうか。気づいたら無意識に目指す方向を逸れて、人の間を縫って近づいていた。
 キーホルダのそばに一足だけ立ち止まった、くたびれたビジネスシューズ。
 ラッシュ時間帯の駅構内で、通行人たちが鬱陶しげに迂回していくのを気にするふうもなく腰を屈めた持ち主は、床に落ちた空色の薬莢を拾い上げると再び歩き出した。
 その後ろ姿を視界に捉えた瞬間、背筋を震えが走った。
 背格好。いつも同じところが跳ねて直らない寝ぐせの髪。両手をポケットに突っ込んで歩く、マイペースな足取り。スーツの背中は、かつて目にしていた制服のそれと大差ない。
 確信した。あれは紛れもなく、高校卒業後に姿を消してしまった親友だ。
 
 
 親友、という表現が正しいのかどうか実は未だにわからない。
 谷中やなかと出会ったのは高校一年だった。同じクラスで、何となく親しくなった。
 親しいと言うよりは、何故か一緒にいることが多かった、と言うべきか。
 毎日のように顔を合わせ、特に意識もせずそばにいて、一緒にメシを食い、授業をサボり、示し合わせたわけでもないのに並んで帰り、時には同じコンビニでバイトまでした。
 それでも互いのことは不思議なくらい話さなかった。家族のことも、中学以前の話も。
 二年で一旦分かれたクラスは、三年でまた一緒になった。
 そして高校最後の夏休み、盆の頃のことだ。
 ある日、約束していたわけでもないのにフラリと谷中がやってきた。そのとき、家族は全員出かけていた。
 家、知ってたっけ? 意外に思って玄関先で尋ねると、あぁ、とか、まぁ、とか曖昧な相槌が返ってきた。
 普段よりも数段低いテンションを珍しく感じながらも、どうしたんだ? とは訊かなかった。
 それにしたって、来る前に連絡ぐらい寄越せばいいのに。
 ちょうど塾が盆休み期間で折良く家にいたからいいようなものの、そうでなければ夏期講習で日中はいない日がほとんどだった。
 冷蔵庫から出してきた父親の缶ビールを一本渡しながらそんなことを言うと、だから何だと言わんばかりの面構えで谷中は肩を竦めた。
「別に、いなかったら帰るだけだし」
 そしてゆっくりと缶を呷った喉仏の動きを、今でも思い出せる。
 冷房が効いてはいたけど暑そうだったから回してやった扇風機の真ん前で、Tシャツの襟を引っ張って涼んでいた谷中の鎖骨の形、顎を上げて目蓋を伏せた横顔。
 半開きの唇から息を吐く心地よさげな表情がぞくりとするほど色っぽく見えて、途端に落ち着かない気分になった。
 だからって、何が引き金となったのかは結局わからない。
 何をしに来たのかも訊かないまま、目を閉じていた谷中の唇に唇を重ねて塞いだ。
 襟元に覗く鎖骨に触れたあと、Tシャツの裾から腹に手のひらを突っ込んだ。
 谷中の手から缶が転がって、ビールの筋がフローリングにカーブを描いた。
 受験勉強のストレスだとか、女と遊びまくってた日々から一転、ストイックな生活が続いてたせいで溜まってただとか、そういった言い訳は一切したくない。しても仕方がない。
 自分の部屋の床の上で親友を抱いた、その事実があるだけだ。
 行為が終わったあと、無言で煙草を一本吸った谷中は、服を整えて床に落ちていた水色の空薬莢キーホルダを尻ポケットに押し込み、ひと言も喋ることなく帰って行った。
 だから用事が何だったのかはわからずじまいで、その後は会うこともなく夏休みが明けると、谷中はもう何事もなかったような風情になっていた。
 そのまま秋が来て冬になり、冬休みは一度も会わずに年が明け、無事に受験も乗り越えた。
 そして卒業を迎えた直後、突然連絡が取れなくなった。
 谷中が受験をしないらしいことは聞いていた。が、それだけだった。
 卒業後の進路も、自宅も知らない。高校の担任教師に訊いても、何が何やら埒が明かない。
 携帯に電話しても、落ち着き払った女の声が無機質に繰り返す。お客さまのおかけになった番号は──
 以来、谷中の消息はプツリと途絶えた。
 
 
 声をかけるかどうかさんざん迷いながら谷中の背中を追って歩き、その間にも過去の記憶が脳内でどんどん膨れ上がって、結局何もできないまま自分の帰宅ルートとは別の路線の改札をくぐっていた。
 あの一件がなければ、アイツは消えたりしなかったんだろうか? それとも、全くの無関係なのか。
 ホームはそれほど混んではいない。
 そのせいで同じ乗車位置に並ぶ踏ん切りがつかず、ひとつ隣のドアの前で待った。連結部を挟んだ、車輌の端同士だ。
 轟音とともに滑り込んできた電車に乗り込み、車輌を仕切る貫通扉の際に立ってガラス越しに向こうの様子を確認した。
 ──これじゃ、まるでストーカーだ。
 内心で苦笑する。
 と同時に、吊革にぶら下がって立つ俯き加減の横顔をチラ見した途端、脳味噌の芯が一瞬で熱を孕むのを感じた。
 間違いない。谷中だ。
 周りの乗客たちのようにスマホを見るでもなく、前に座るサラリーマンの頭頂部あたりに目を落としている、どこかぼんやりした眼差し。
 基本的には溌剌としたタイプだった親友が、昔も時折見せることのあった気怠い風情が、すぐそこにある。
 確かに二十歳前後から三十半ばくらいまでというのは、人生で最も変化する時期と言ってもいいだろう。
 就職して長年の学生気分が徐々に抜け落ち、代わりに将来を築く基礎部分が積み上がり始め、その過程で結婚したり子供ができたり家を買ったりもすれば、ガラリと塗り変わるものだ。
 そういった期間を丸々知らないわけだから、アイツがどんな大人になっていようと不思議はない。
 ふと思い至って、ガラスの向こうの谷中を盗み見た。正確には、吊革を掴む左手を。
 ここから見る限り、薬指に指輪はない。
 が、だからって結婚してないとは限らない。
 自分がいい例だ。
 学生時代の友人の紹介で知り合った彼女と付き合い始めたのは、社会人になって間もない頃だった。
 気が合い、セックスの相性も良くて、おかげで取っ替え引っ替えだった女遊びもすっかり鳴りを潜め、人並みに喧嘩もしながら概ね順調に続いて、二十六で結婚。
 特に大きな波風が立ったこともなく、でも、それがいけなかったのかもしれない。
 このまま築いていくんだろうな、と漠然と考えていた夫婦関係は四年で破局した。およそ二年前のことだ。
 その間、左手の薬指に指輪があったのは互いに最初の一年だけだった。
 とは言え夫婦仲は良かったほうだと思うし、離婚に至った原因も未だにはっきりしない。
 ただ、妻は最後にこう言った。
「待ってる人が、いつか現れるといいわね」
 と。
 多分、出会いからそれまでの間に一番、柔らかな笑顔で。
 彼女のことを反芻するほんの短い時間、ガラス越しの谷中の手を見るともなく眺めていた。
 あの手に、当たり前のように触れることができた、そんな日々があった。
 まるで昨日のことのようだと感じる反面、不思議なほど現実味がない過去。
 声をかけたら、どんな顔をするだろうか。
 それ以前に、何を言えばいい?
 元気か?
 今どうしてるんだ?
 俺は一回結婚したけど、何か失敗しちまったらしいよ。原因は自分でもよくわからねぇ。
 そんな言葉がいくつか脳裏を掠めたあと、最後にこんな問いがポツリと浮かんだ。
 なぁお前、あのときのことをどう思ってたんだ?
 あの日、何しに来たんだ──?
 電車に揺られていたのは三十分ほどだった。
 谷中が動いたのは、降りたことのない駅だった。
 が、自宅とは違うエリアまで尾けてきて、このまま折り返して帰るなんて発想はさらさらない。迷うことなくホームに降り立った。
 だけど、ついていってどうするんだ?
 自問しながら改札階まで上りきったとき、ちょうど逆方向の降車客たちと合流した。混ざり合う人波に紛れて谷中を一旦見失いかけ、改札の向こうに右方向へと逸れていく後ろ姿を見つけてホッとする。
 地上に出ると、路面が少し濡れていた。地下鉄に乗ってる間に通り雨でも降ったらしい。
 電車に乗る前は夕焼けの名残を見せていた空も、もうほとんど夜の色に塗り変わっていた。
 
 
【END】

MENU