「うわ、危ね! 気ぃつけろよな、佐藤」
「お前がもたもたしてっからだろ」
 玄関で靴を脱ぎつつ、佐藤から押されるような形になった山田は文句を垂れたが、佐藤はいつもの通り聞いちゃいなかった。
 ぶつぶつ言いながら一歩踏み出したら視界の端が柔らかく歪んだ気がして一度立ち止まる。その背中に佐藤がまたぶつかった。
「だからお前、急に立ち止まんなよ」
「うるせぇなあ」
 少々飲み過ぎた山田を追い越し、佐藤はさっさとリビングに入って行った。
 
 
 田中、鈴木、佐藤と山田。
 いつものメンバーで、いくつかあるうちのいつもの居酒屋で、いつものメニューを頼んでいつもの通り馬鹿話をして飲んだくれた。
 鈴木の取引先担当が巨乳美女になったとか、田中の家の前の道路工事がやかましいとか、そんな話だ。
 山田はさっさと寝室に入ると鞄と脱いだ上着を放り投げ、シャツのボタンを外しながら欠伸をした。
「そういえばお前さあ」
 突然かけられた声に、欠伸が収まりきっていない面のまま振り返ると、佐藤が思い切り顔をしかめる。
「ひでぇツラ」
「前からだし」
「知ってっけど」
「知ってるとか言うなお前失礼だな」
「どっちだよ、一体」
 溜息を吐きながら近づいてきた佐藤が、山田のシャツのボタンを途中から外し始めた。
「何やってんの佐藤」
「途中だったんだろ、着替え」
「あ? ああ、そうだけど」
「手伝ってやるよ」
「えー? 別に一人でできるし……ってどさくさに紛れてどこ触ってやがるてめぇこの」
「どこって」
「てか、何だよ用事!?」
 脇腹をがっしり掴まれ、半ば持ち上げられるようにして強制的に移動させられながら山田は喚いた。
「用事って?」
「お前、お前さあって言ったじゃん今、何なの俺が」
「言ったっけ」
「言ったろぉ!?」
 思わず声がひっくり返る。突然視界がぐるりと回り、そんな酔ってたのか俺、と山田は考えた。
 薄暗い天井が視界いっぱいに広がって、そこに同居人の顔が加わるに至ってようやく押し倒されたのだと理解する。
 何だかよく分からないが気付いたら上半身は既に衣類が取っ払われて、部屋の空気が直接上腕の産毛を撫でた。
「もう眠ぃんだけど俺」
 眠いのは本当だ。今すぐ寝たい。すぐ寝たい。
「最近何かすれ違ってご無沙汰だったし?」
「何で疑問形」
「明日金曜だし? あ、明日っていうかもう今日か」
 山田はとりあえず佐藤を押しのけようと腕を突っ張った。手首を取って捻り上げられたので腹が立ち、佐藤の腰を蹴っ飛ばす。
「だけど残り一日あるだろ仕事っ」
「うるせえなあ」
 佐藤は仏頂面で吐き捨て、三秒程停止した後、自分のネクタイに片手をかけた。勿論片手は山田の腕を掴んだままだ。
 結び目に指をかけ、首を軽く捻って引っ張る。するすると抜けていく絹の音が、部屋の中で馬鹿みたいにクリアに響いた。
「ちょっと我慢しろ」
「え? な、ちょ、おい、やめろ変態!」
「この程度でか」
「泣かすぞっ」
「それ、俺の台詞じゃねぇのか、どっちかっつーと」
 結局、佐藤は自分の首から抜いたばかりのレジメンタルタイで、手際よく山田の両手首を括り終えた。
 お前絶対女相手に同じことやったことあるだろ、これっ!!
 言いかけた口を塞がれ、山田の文句は佐藤の耳には届かなかった。
 佐藤の口は、僅かに酒の匂いがする。
「んっ──……」
「後で取ってやっから」
 唇が僅かに離れる。ほんの少しの隙間を埋めるように、佐藤が低く掠れた声で小さく呟く。
「取り敢えずは楽しめよ」
 
 
 
 山田が起きた時には、既に佐藤はいなかった。
 そういえば始業前に会議があるとか、飲んだ席でぼやいていた気もしないではない。
 寝不足でぐらぐらする頭を手で支え、一服しながら山田はぼんやり考えた。
 あんだけ飲んで、そんで深夜にあんだけ濃いセックスして、早起きして会議に出るなんて一体どんだけ元気なんだあの野郎。
 いつまでも寝ぼけたようにはっきりしない状態で、山田はシャワーを浴び、下着をつけてのろのろとスーツを選ぶ。ベッドに座ってシャツに袖を通し、枕の横にあったネクタイを締めて家を出た。
 
 
 山田が喫煙所に入って行くと、田中と鈴木が煙草を吸いながら喋っていた。
「おう」
「よう」
「お疲れ様です」
 鈴木が山田にそう声をかける。そういえば鈴木は客先に直行したから、今日会うのは初めてだ。
「そういやさあ、お前の午前中の出先ってあれだったんだっけ? 例の巨乳?」
「違いますよ。それは午後からです」
「いいなー、巨乳。巨乳はいいよな、やっぱ」
「お前巨乳好きだったっけ、山田……って、あれ?」
 田中が山田を見て数秒後、訝しげな顔をした。
「何だよ」
「……何か、あれ?」
「だから何だっつってんじゃん」
「いや、何か……」
「だからぁ」
「山田さんのネクタイ、佐藤さんのじゃないですか。昨日締めてましたよね、その柄」
「へ?」
 鈴木が言い、田中がああ、と膝を打った。
「だからか。何かが気になったんだけどそれが何か分かんなかったんだよなー」
「何言ってんのか分かんねぇんだけど田中」
「ネクタイ貸し借りするなんて仲いいですね。山田さんと佐藤さん」
「つーか、昨日締めてたやつを翌日貸すか、普通。お前もそんなの借りんなよ、山田」
 借りた覚えがねぇんだけど。
 山田は自分の腹を見下ろした。顎を引き、ベルトの上に乗っかっている剣先から更に上を見る。確かに、どうみてもそれは自分のネクタイではない。
 淡くグレイがかった白地にシャンパンゴールドと臙脂のレジメンタルタイ。
 ベッドの上にあったのを無意識に締めてきたが、そういえばあんなところにネクタイを置く癖はない。
「……あ?」
 昨日の夜。
「……あ」
 山田の手首を縛っていた佐藤のネクタイだった。
「…………あぁ」
「あ、佐藤さん」
 鈴木の声に顔を上げると、喫煙所の入り口に佐藤が立っていた。
「よう」
 佐藤は言い、煙草を銜え、沈黙に気がついたのか目を上げた。
「何だよ」
 鈴木、田中と動いた佐藤の視線が山田の顔に据えられて、僅かに眇めた目が山田の首からぶら下がるネクタイに行き当たる。
 今来た道を逆に辿って、佐藤の眼が山田を捉えた。一見無表情な佐藤の顔。
 昨日もこんな熱っぽい目付きをしていたような気が──。
「俺、便所」
 いきなり立ちあがった山田は吸いかけの煙草を鈴木に押し付けた。
 手首を縛るネクタイの滑らかな感触が一気に蘇り、こめかみの奥がかっと熱くなる。
 縛られて興奮したのか、佐藤の言うなりに色々させられて、普段なら言わないようなことも口走り、感じるだけ感じて意識を飛ばしたことも思い出す。
「山田」
 横をすり抜けたそのときに、佐藤が山田の手首をぐいと掴んだ。
 見下ろす佐藤の眼が一瞬細められ、親指が手首の骨をそっと撫でる。
「ライター貸してくれ」
「……」
 ライターを佐藤の胸ポケットに乱暴に突っ込んで、山田は佐藤の手を振り払って廊下に出た。
 背後から、佐藤の声が聞こえてくる。
「ああ、俺がその辺に置き忘れたからうっかり締めてきたんじゃねーの。つーかどんだけ面倒くさがりなんだよ、あいつ」
 
 
 
「……山田さん、ネクタイどうしたんですか」
「うるせぇな、俺は年中クールビズなんだよ」
 何となく誰もが心浮き立つ金曜の午後。
 山田は口の中で小さく「クソ」と呟いた。
 ポケットに突っ込んだ佐藤のネクタイが、するりと肌を撫でるのを感じた気がした。
 
 
 
【END】

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